三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「イマジナリー」

2024年11月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「イマジナリー」を観た。
映画『イマジナリー』公式サイト

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『M3GAN/ミーガン』 『ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ』のブラムハウス最新作。愛らしいテディベアと友達になった少女とその家族が、不気味な友情と

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 今年(2024年)の8月に公開された邦画「サユリ」もそうだったが、最近のホラー映画は、恐ろしい何者かに一方的に蹂躙されるだけではなく、何らかの反撃を試みようとするところがある。このところのホラー映画の傾向かもしれない。たしかにそのほうが面白い。本作品もそれなりに楽しめた。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という諺があるように、大抵の恐ろしいものは、人間の想像力が作り出したものだ。本作品のコンセプトの通りである。人知の及ばぬ恐ろしい存在という概念は、神の概念にも通じて、ある種の戒めになっている面がある。シャーマンの歴史も含めて、原始共同体では統治に必要な概念だったのかもしれない。

 本作品の登場人物は、庶民ばかりであり、恐ろしいものをちゃんと畏れる。だから作品が成立しているとも言える。しかし人知の及ばぬ恐ろしい存在など、まったく恐れない人々がいる。それは権力の周囲に巣食う妖怪たちで、底知れぬ悪意を持っている。連中に比べたら、ホラー映画に登場する悪意など、まだ可愛いものだ。
 本作品の女性軍がけなげに奮闘する様子を見ながら、ふとそんなことを考えてしまった。

映画「ロボット・ドリームズ」

2024年11月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ロボット・ドリームズ」を観た。
映画『ロボット・ドリームズ』オフィシャルサイト

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2024.11|第96回アカデミー賞長編アニメーション映画賞ノミネート その出会いに世界中が恋をした

映画『ロボット・ドリームズ』オフィシャルサイト

 台詞はないが、表情や動作、使っている道具などが十分に語っている。淋しさがあって、出会いがあって、喜びと楽しさがあって、そして別れがある。本作品は、明治の文豪が書いた小説みたいであり、抒情詩のようである。
 明治の文豪といえば、島崎藤村の「惜別の歌」をご存知だろうか。

 わかれといへば むかしより
 このひとのよの つねなるを
 ながるるみずを ながむれば
 ゆめはずかしき なみだかな

 ドッグは泣かない。やるせない別れに心残りはあるが、いまの相棒は大切だし、いまの生活を楽しんでいる。時代は巡る。別れと出会いを繰り返すのだ。中島みゆきの歌詞も思い出した。
 本作品は、時間の流れと人の流れという普遍的なテーマを扱っているだけに、多くのドラマや歌と共通性がある。利己主義者や拝金主義者も登場するが、無償の行為もある。優しさが残っているなら、それでよしとしようじゃないか。そんな作品だった。

映画「アット・ザ・ベンチ」

2024年11月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アット・ザ・ベンチ」を観た。
AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ

AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ

AT THE BENCH アット・ザ・ベンチ

 目黒区の自由が丘という街によく行くのだが、駅の近くに九品仏川緑道という遊歩道がある。道路の中央が非交通帯になっていて、ベンチが向かい合わせに置いてある。歩き疲れたら座って休めるので、とても助かる。人との待ち合わせにもいいし、老夫婦や若いカップルが仲睦まじく座っているのも微笑ましい。
 渋谷や新宿には、ベンチがない。代々木公園や新宿御苑にはベンチがあるが、駅からはかなり離れていて、用事の途中で休憩するには不向きである。ちょっと疲れたときに休むには、カフェに入るしかない。カフェにはWiFiもあるし、充電するためのコンセントもあるから便利なのだが、いかんせん、いつも混んでいる。
 新宿の区立公園のベンチは、座面が湾曲しているものや、背もたれがないものがあって、巷では「意地悪ベンチ」や「排除ベンチ」などと呼ばれて、すこぶる評判が悪いようだ。中には座面に道路規制のポールがつけられて、そもそも座ることさえ叶わないベンチもある。ベンチは災害時の緊急利用の役割もあり、そういうベンチは緊急時に役に立たないと、災害専門家は指摘している。
 ホームレスが寝床にしたり、スケートボードで壊されたりするのを予防したいという、行政側の思惑はわからないでもない。しかし人が座るベンチから、人を排除することはないだろう。ホームレス対策はシェルターを作るとか、スケートボード税を新設して、そこからスケートボード施設の建設費や維持費を捻出するとか、やり方はあるはずだ。

 街造りは、行政の考え方がストレートに出る施策のひとつである。神宮外苑の銀杏並木を伐採する東京都は、都知事の都民軽視の姿勢がもろにわかる。行政の排除の論理が形になったものが「意地悪ベンチ」だが、そうでないベンチもある。優しさを感じられるベンチだ。それはシンプルなベンチである。頑丈で、背もたれがあって、寝そべることもできる。本作品の多摩川の岸辺のベンチは、多分そういうベンチだと思う。

 人は歳を取り、やがて死ぬ。モノも劣化していき、やがて朽ちて壊れる。条件と偶然、つまり縁起が人とモノを結びつける。本作品のベンチは、登場人物の誰にとっても縁起のいいベンチなのだろう。優しいモノは、優しい人を呼び寄せる。とても楽しく鑑賞できた。

 第2話だけが、唐突に不寛容な一幕だったが、それ以外は人間の優しさの物語である。プラスな話ばかりだと気持ちが悪いから、ネガティブな話を挟んだのかもしれない。悪役を演じた岸井ゆきのには気の毒な構成だった。

映画「ノーヴィス」

2024年11月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ノーヴィス」を観た。
「THE NOVICE ノーヴィス」

「THE NOVICE ノーヴィス」

あの『セッション』のクリエイターが挑んだ狂気の物語『THE NOVICE ノーヴィス』11/1(金)ROADSHOW

「THE NOVICE ノーヴィス」公式サイト

 イギリスの詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンの「見る前に跳べ」の中に次の一節がある。

気の利いた社交界の振舞もまんざら悪くはない、
だがひと気のないところで悦ぶことは
泣くよりももっと、もっと、むずかしい。
誰も見ている人はいない、でもあなたは跳ばなくてはなりません。
(深瀬基博:訳)

 流石に高名な詩人だけあって、言葉の多義性は目を見張るものがあるし、深瀬基博さんの翻訳も大したものだ。ただ、難解な部分もあるので、この一節だけを読んでも、詩の全体は理解できないかもしれない。簡単に言うと、人間は社会的動物だから、他人に認めてもらえないと生きていけない、しかしひとりで決めて、ひとりで行動に移さなければならないときがある、危険を顧みずに、躊躇なく行動しなければならないのだ、というような意味だと思う。

 ポイントは「ひと気のないところで悦ぶ」というところで、本作品の主人公アレックス・ダルとは正反対である。アレックスの不幸は、極端な承認欲求と極端な負けず嫌いという性格よりも、ひとりで悦ぶことができない点にある。常に他人と自分を比較したがるのは人の常だが、大抵の場合、不幸な結果しか招かない。自足しない人生は、常に戦いの人生であり、自足しない国家は、常に戦争の国家だ。

 原因は哲学の欠如にある。自分で考えて、自分で価値を創造するとき、他人との比較の基準も自分の価値観となるが、自分の哲学がない人間は、独自の判断基準がないから、勢い、世の中のパラダイムに従ってしまう。金持ちで、有名人の知人がいて、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能を頂点として、劣る者を蔑み、優れる者を羨む。
 つまり戦争や紛争、人間関係の軋みを生むのは、常に俗物根性なのだ。人類の歴史から戦争が絶えたことがないのは、人類がいつまで経っても俗物根性から脱しきれないからである。

 一方で、俗物根性同士が手を組むことも多い。利害の一致というやつだ。ボート部だから息を合わせないと勝てないが、それは勝って他人よりも優位な自分に満足したいという、下世話な欲求が動機である。誰かを助けるために頑張るわけではない。誰かを助けたい人間は、決して戦争を始めない。
 アレックスはみんなの代表である。実に典型的な俗物だが、ぶっちゃけキャラが過ぎる。自分の俗物根性をオブラートで包んで、スポーツを美化したい人たちからすれば、あけすけなアレックスは身も蓋もない存在だ。差別は親切のフリをして行なうのがオシャレなのに、敵意剥き出しでは嘘が成立しない。
 とはいえ、アレックスの存在が、下世話な人々の人間関係に風穴を開けたことはたしかだろう。女子ボート部には、嫉妬と差別と馴れ合いが渦巻いている。彼女たちの真実は、アレックスがその典型を演じてみせた、ゴリゴリの利己主義者なのだ。互いに息を合わせるのも利己主義者同士の悪巧みのレベルである。誰も幸せになれないし、誰のことも救えない。