映画「ノーヴィス」を観た。
イギリスの詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンの「見る前に跳べ」の中に次の一節がある。
気の利いた社交界の振舞もまんざら悪くはない、
だがひと気のないところで悦ぶことは
泣くよりももっと、もっと、むずかしい。
誰も見ている人はいない、でもあなたは跳ばなくてはなりません。
(深瀬基博:訳)
流石に高名な詩人だけあって、言葉の多義性は目を見張るものがあるし、深瀬基博さんの翻訳も大したものだ。ただ、難解な部分もあるので、この一節だけを読んでも、詩の全体は理解できないかもしれない。簡単に言うと、人間は社会的動物だから、他人に認めてもらえないと生きていけない、しかしひとりで決めて、ひとりで行動に移さなければならないときがある、危険を顧みずに、躊躇なく行動しなければならないのだ、というような意味だと思う。
ポイントは「ひと気のないところで悦ぶ」というところで、本作品の主人公アレックス・ダルとは正反対である。アレックスの不幸は、極端な承認欲求と極端な負けず嫌いという性格よりも、ひとりで悦ぶことができない点にある。常に他人と自分を比較したがるのは人の常だが、大抵の場合、不幸な結果しか招かない。自足しない人生は、常に戦いの人生であり、自足しない国家は、常に戦争の国家だ。
原因は哲学の欠如にある。自分で考えて、自分で価値を創造するとき、他人との比較の基準も自分の価値観となるが、自分の哲学がない人間は、独自の判断基準がないから、勢い、世の中のパラダイムに従ってしまう。金持ちで、有名人の知人がいて、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能を頂点として、劣る者を蔑み、優れる者を羨む。
つまり戦争や紛争、人間関係の軋みを生むのは、常に俗物根性なのだ。人類の歴史から戦争が絶えたことがないのは、人類がいつまで経っても俗物根性から脱しきれないからである。
一方で、俗物根性同士が手を組むことも多い。利害の一致というやつだ。ボート部だから息を合わせないと勝てないが、それは勝って他人よりも優位な自分に満足したいという、下世話な欲求が動機である。誰かを助けるために頑張るわけではない。誰かを助けたい人間は、決して戦争を始めない。
アレックスはみんなの代表である。実に典型的な俗物だが、ぶっちゃけキャラが過ぎる。自分の俗物根性をオブラートで包んで、スポーツを美化したい人たちからすれば、あけすけなアレックスは身も蓋もない存在だ。差別は親切のフリをして行なうのがオシャレなのに、敵意剥き出しでは嘘が成立しない。
とはいえ、アレックスの存在が、下世話な人々の人間関係に風穴を開けたことはたしかだろう。女子ボート部には、嫉妬と差別と馴れ合いが渦巻いている。彼女たちの真実は、アレックスがその典型を演じてみせた、ゴリゴリの利己主義者なのだ。互いに息を合わせるのも利己主義者同士の悪巧みのレベルである。誰も幸せになれないし、誰のことも救えない。