映画「本心」を観た。
大江健三郎が「本当のことを言おうか」というテーマについて、エッセイの中で書いていたのを読んだことがある。読んだ当時は「本当のこと」を人に話すことがとても恐ろしいことのように感じられて、人は「本当のこと」を言わずに一生を終えるのではないか、そういう人が殆んどなのではないかと思った。
いまでも、その考えはあまり変わらない。「本当のこと」は、本作品のタイトルである「本心」と言い換えることができる。人は誰でも心に闇を抱えていて、大抵の場合「本心」は闇の部分が多くを占める。
人は死ぬものだと理解したときから、誰かの死を願うことができるようになる。はっきりと個人を特定できるほど自覚している願望であったり、誰かとは限らないが漠然と、生きていてほしくない人たちを意識したりする。あるいはその両方か。
他人の死を心の奥底で願っているだけなら、何の問題もない。内心の自由は憲法で保障されている。しかし言葉に出すと、常識や良識を疑われる。何らかの殺意の持ち主だと思われたら、付き合い方も変えられるだろう。人は社会で上手く生きていくために「本心」を何重にも包んで、誰にも見せないようになる。
本作品は「本心」をいろいろな仕掛けで吐露させようとしているところが面白い。まずリアルアバターには感心した。高性能のカメラと集音マイクが、離れた場所にいる依頼者に疑似体験をもたらす。Google EarthやGoogle Street View を駆使すると、行ったことのない場所に詳しくなることがある。あれと同じだ。
見るだけではなく、何らかのアクションを起こせるとなると、心の奥にしまっていた「本心」が発露することになる。離れた場所にいる自分を安全圏にいると誤認してしまい、本当にやりたかった行動への衝動が止められなくなるのだ。ネットに何でも書き込む連中と同じである。リアルアバターが、いま流行りのアルバイト強盗みたいな存在に堕ちてしまうのは時間の問題だ。観客の誰もがそう思ったと思う。
もうひとつの仕掛けがバーチャル・フィギュア(VF)で、画像やテキストとして残っているデータをAIに学習させることで、故人を映像と音声で復活させる。生前聞けなかった「本心」を話してほしいと願うが、AIが学習した故人は「本心」を話したがらない。そんなに都合よくはいかないのである。そういったもどかしさも、本作品の面白さのひとつだと思う。
ラスト近くの主人公のモノローグでさっと流されてしまうが、リアルアバターを雇っていたのがAIだったという知らせは、ネットワークAIに支配された未来を描いた「ターミネーター」を彷彿させる。人格とは何かというテーマとともに、人間の幸福はどこに残っているのかと、ある種の寂寥感が漂う。
大江健三郎の文章全体は忘れてしまったが、作家というのは登場人物に「本当のこと」を言わせるために物語を編み、遠回しの表現をしたり、行間に語らせたりするものだ、というふうなことを書いていたと思う。「本当のこと」は、言わないことそのものも含めて「本当のこと」なのだ。