三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「本心」

2024年11月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「本心」を観た。
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 大江健三郎が「本当のことを言おうか」というテーマについて、エッセイの中で書いていたのを読んだことがある。読んだ当時は「本当のこと」を人に話すことがとても恐ろしいことのように感じられて、人は「本当のこと」を言わずに一生を終えるのではないか、そういう人が殆んどなのではないかと思った。
 いまでも、その考えはあまり変わらない。「本当のこと」は、本作品のタイトルである「本心」と言い換えることができる。人は誰でも心に闇を抱えていて、大抵の場合「本心」は闇の部分が多くを占める。
 人は死ぬものだと理解したときから、誰かの死を願うことができるようになる。はっきりと個人を特定できるほど自覚している願望であったり、誰かとは限らないが漠然と、生きていてほしくない人たちを意識したりする。あるいはその両方か。
 他人の死を心の奥底で願っているだけなら、何の問題もない。内心の自由は憲法で保障されている。しかし言葉に出すと、常識や良識を疑われる。何らかの殺意の持ち主だと思われたら、付き合い方も変えられるだろう。人は社会で上手く生きていくために「本心」を何重にも包んで、誰にも見せないようになる。

 本作品は「本心」をいろいろな仕掛けで吐露させようとしているところが面白い。まずリアルアバターには感心した。高性能のカメラと集音マイクが、離れた場所にいる依頼者に疑似体験をもたらす。Google EarthやGoogle Street View を駆使すると、行ったことのない場所に詳しくなることがある。あれと同じだ。
 見るだけではなく、何らかのアクションを起こせるとなると、心の奥にしまっていた「本心」が発露することになる。離れた場所にいる自分を安全圏にいると誤認してしまい、本当にやりたかった行動への衝動が止められなくなるのだ。ネットに何でも書き込む連中と同じである。リアルアバターが、いま流行りのアルバイト強盗みたいな存在に堕ちてしまうのは時間の問題だ。観客の誰もがそう思ったと思う。
 もうひとつの仕掛けがバーチャル・フィギュア(VF)で、画像やテキストとして残っているデータをAIに学習させることで、故人を映像と音声で復活させる。生前聞けなかった「本心」を話してほしいと願うが、AIが学習した故人は「本心」を話したがらない。そんなに都合よくはいかないのである。そういったもどかしさも、本作品の面白さのひとつだと思う。
 ラスト近くの主人公のモノローグでさっと流されてしまうが、リアルアバターを雇っていたのがAIだったという知らせは、ネットワークAIに支配された未来を描いた「ターミネーター」を彷彿させる。人格とは何かというテーマとともに、人間の幸福はどこに残っているのかと、ある種の寂寥感が漂う。

 大江健三郎の文章全体は忘れてしまったが、作家というのは登場人物に「本当のこと」を言わせるために物語を編み、遠回しの表現をしたり、行間に語らせたりするものだ、というふうなことを書いていたと思う。「本当のこと」は、言わないことそのものも含めて「本当のこと」なのだ。

映画「ネネ エトワールに憧れて」

2024年11月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ネネ エトワールに憧れて」を観た。
映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

11月8日公開。世界三大バレエ団の一つ、パリ・オペラ座の最高位“エトワール”を目指す少女の物語。

映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

 一時期人気のあった「集団行動」というパフォーマンスがある。個性を捨てさせて、歩くマシンと化すまで訓練された姿を見せるものだ。殆んど軍隊である。人格や人間性まで放棄させられているみたいで、見ていてとても気持ち悪かった。しかしそれを気持ちがいいと感じる人たちがいることは確かで、本人が気がついていない場合もあるが、それは戦争が好きな精神性の持ち主である。だから気持ち悪いのだ。
「集団行動」とバレエを同一視することはできないが、根底の精神構造は同じだと思う。言ってみれば、没個性と画一性の美学だ。バレリーナに自己抑制を徹底させて、身長や体重、各サイズの維持まで要求し、踊りの技術を極限まで訓練して、踊る機械にする。機械に個性はいらない。そこまでしてバレリーナに得られるものは、何だろう。高収入と名声かもしれないが、それは極く一部の人に限られる。

 本作品は、主人公ネネが黒人であることの不利をはねのけて、スター(エトワール=星)になることができるかの物語だが、ネネがバレエ学校に入りたい動機は、権威がある学校だからであり、講師や卒業生に有名人がたくさんいるからである。ミーハーな動機が悪いとは言わないが、世の中の価値観に精神が蹂躙されている気もする。
 パラダイムの中心には、ヒトもカネもモノも集まる。そこに辿り着きたい希望がある一方、そこから排除される人々への無関心がある。ネネは希望と無関心の両方の対象となって、12歳の心は引き裂かれそうになる。
 父親は自分の希望を叶えたいネネを応援し、母親と校長は、排除の対象になってしまうことを恐れて、ネネの希望に反対する。ネネももう少し大人になれば、状況を俯瞰して自分を客観視できるようになり、少しは気持ちも楽になるのだろうが、いまは苦しいばかりだ。

 フランスは移民を受け入れて、そのために税金が使われて、みんなが少しずつ貧しくなっている。移民に怒りの矛先が向かうのを防ぐことはできない。ネネのように見た目ですぐに分かる人種は、差別の対象から免れ難い。社会の歪みを12歳のネネが一身に受けている訳で、本作品のテーマはそのあたりにあると思う。