映画「十一人の賊軍」を観た。
映画の中には「砦モノ」とでも言うべきジャンルがある。日本の時代劇やアメリカの西部劇でよく見かけたシチュエーションだ。NFLの試合みたいでわかりやすいし、戦略と戦術を楽しむことができる。
本作品もメインはそこだろうと思うが、この映画には、既存の作品にはない、物語のベースとなっているものがある。それは怒りのトーンだ。それも単調な怒りではなく、登場人物それぞれの怒り、それに登場していない人々の怒りがある。
共同体はその存続のために、価値を創造する。多くの場合、それは権威となり、権力を伴って権力者の地盤を強化する。支配関係はヒエラルキーとなり、世襲となって、格差を固定する。固定するための価値観が「家」である。
本作品の時代、明治維新へ向かう倒幕運動において「家」は正と負の両方のベクトルとなっている。官軍に与するのか、同盟に協力するのか、いずれも「家」が単位となっている。当然ながら、家老の責務はとてつもなく重い。官軍と同盟軍。双方の間で上手に立ち回り、被害を最小限にしなければならない。
一方、庶民にとっては「家」などという価値観は、最初から無縁だし、藩がどうなろうと武士が死のうと知ったこっちゃない。自分たちが満足に生活できさえすれば、それでいい。そもそも武士のヒエラルキーを押し付けられるなんて、まっぴらだ。偉そうにされたり、理不尽な仕打ちをされるのも我慢がならない。
武士たちは、壊れゆく価値観に縋りながらも、この状況に怒りを覚え、庶民は、未だに格差を押し付けてこようとする連中に怒りを覚える。両者に共通しているのが、自分の預かり知らぬところで勝手に国を動かそうとしている、見えない力に対する怒りだ。海の外から日本を操ろうとしていた列強国家の存在もあっただろうが、納得できる理由もないままに、暴力に唯々諾々と従ってしまう自分たち自身への怒りもあっただろう。時代そのものに対する怒りと言ってもいい。
スクリーンが怒りの色で染まっているような作品だが、戦いの中でも、ちゃんと人間ドラマが描かれる。俳優陣は揃って好演。特に、達者な人たちに混じって、砦の紅一点を演じた鞘師里保が素晴らしい。今後の活躍も期待したい。