映画「海の沈黙」を観た。
絵画というと、どうしてもその価格が気になる。我ながら俗物根性が情けないのだが、絵画を見るとどうして価格が気になるのか考えてみたとき、絵画の報道が必ず価格とセットになっていることが影響しているのかも知れないと思った。その報道というのは、盗まれたか、発見されたか、落札されたかのどれかだ。滅多にないが、誰それの絵画が賞を取ったとか、画家が叙勲されたというニュースもある。そしてそのときも、どんな絵を描いていて、その絵はいくらなのかが報道される。絵画の報道は、その価格と不可分になっているようだ。あたかも有名人のゴシップ記事のようである。といっても、自分のスノッブを報道のせいにするのは言い訳がましいか。
2016年に池袋の東京芸術劇場ギャラリー1で開催された、広島県の画家大前博士さんの作品展「黒い世界と白き眼光」を見に行った。テーマは原爆である。
抽象画は不案内でなかなか理解し難いのだが、展示されたそれぞれの絵は、とにかく悲惨で凄絶な場面をこれでもかと訴えかけてきた。
ひとつだけ気になったのは、どの絵にも丸が描かれていることだ。大きな丸、小さな丸、歪んだ丸など、様々な丸が描かれていた。その殆どのモチーフは人間の目だと思われるが、それは被爆者の目だけではなく、描いている自分の目でもあり、また神の目でもあるかのようだ。それぞれの目が見つめる先は、現実であり過去であり未来である。自分の内側であり、外の世界である。何も信じられない、ただ見つめる、そのような目であるように感じられた。
描かれた丸のもうひとつのモチーフは魂だろうか。人間の意識と無意識と記憶のすべてが魂であるなら、生きている人間にしか魂はない。死体には丸は描かれていなかったように思う。
堂本剛が主演した映画「まる」の丸は、作品の中では仏教の円相という話だったが、大前博士さんの絵に感じたように、もしかしたら人間の目、あるいは神の目かもしれない。少なくとも、大前博士さんの絵を見るとき、価格のことは少しも頭に浮かばなかった。
我々は、絵を見るときに価格を気にするように、人を見るときには性別や年齢や職業などを気にする。それはバイアス以外の何物でもない。いい絵はいい絵だし、いい人はいい人なのだが、悪い人もいい人に見えることがある。自分に自信がないから、対象の情報を求めたがる。絵を見極める能力がないことを自覚しているから、価格を気にするしかないのだろう。
さて本作品は、そんな鑑賞眼のない我々を憐れむように、本物の絵とは何かを問いかけてくる。絵を見るときに、価格や画家の背景やらを何も考えず、ただその絵と向かい合ってほしいと願うのは、すべての画家に共通する願いに違いない。
本木雅弘の演じる津山竜次の精神が気高すぎて、俗物の当方の理解の範疇を超えていた。あんなふうに浮世のよしなしごとを何も気にせずに生きるのは、ある意味で幸せな生き方だと思った。ただ、相当な精神力が必要だから、多分当方には無理だ。