映画「アイミタガイ」を観た。
エンドロールで流れる主題歌を歌う黒木華の歌声は、一生懸命さがひしひしと伝わってくる。生真面目で努力家らしい彼女の精一杯の歌は、女優の歌らしい野太さと優しさを備え持つ。本作品は、歌でも演技でも、黒木華のポテンシャルが存分に発揮された印象的な作品である。楽しかったし、女優が歌う時代がまた来ればいいと願ったりもした。
本作品はディテールが脳のシナプスのように繋がって、ひとつの球みたいな構造を持っている。ちょっと纏まりすぎているところはあるが、それよりも、バラバラのシーンがひと繋がりになる気持ちよさがある。
「相身互い」という言葉は、互いに相手のことを思うという面では「同病相憐れむ」に雰囲気が似ているが、同情し合うわけではない。それよりも「情けは人のためならず」に似ていると思う。
「情けは人のためならず」は、その意味が誤解されている代表的な諺として、テレビや新聞で話のタネに出てくることがある。他人に情けをかけるのは、そのひとを甘やかすことになるからよくないという解釈が誤解で、他人に親切にするのは巡り巡って自分に戻ってくるという解釈が正解だという内容である。
しかし当方は、この解釈もおかしいと思っている。自分に何らかの益が戻ってくることを期待して、人に親切にするというのは、いかにも不自然だ。この世では、経済をはじめとして、人と人とが複雑に繋がっていて、誰かが誰かのために働いている。誰かの努力は、必ず誰かのためになる訳だ。だから人を助けることは、その人から益を得ている多くの人を助けることになる。ひいては社会全体のためになるという解釈のほうが「情けは人のためならず」の意味として正しい気がする。
「相身互い」は、さらに一歩進んで、物理的な益というよりも、互いの境遇を理解して思いやるという精神的な益にまで、関係性が深まっている言葉だと思う。現代人が使わなくなった言葉のひとつだ。翻って、現代社会の格差と分断の証左だと言えるだろう。拝金主義の世の中だ。相身互いの精神は廃れて当然である。
いつか人類が絶滅の時を迎えようとしたときに「人類は相身互い」とか「人間は相身互い」という言葉が復活するかもしれない。そのときには、もっと早く「相身互い」の精神性を獲得すべきだったという痛恨の反省があるに違いない。
ほのぼのとしたいい作品だが、いまだけ、カネだけ、自分だけという刹那主義の亡者たちが席巻するこの世の中に、警鐘を鳴らされているようで、思わず目眩を覚えてしまった。