三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「カノン」

2016年10月06日 | 映画・舞台・コンサート

映画「カノン」を観た。
http://kanon-movie.com/

人間関係の破綻と再生の物語だ。バラバラの人生を生きている3姉妹が祖母の葬儀で集まるところから映画がはじまる。現在の状況と過去の振り返り。かつては誤解と不信、不安による精神疾患、そして離別があったが、物語が進む中で誤解が理解に変わり、再会があり、不信が親和になっていく。

映画は次女役の比嘉愛未を中心に展開していくが、比嘉の演技がそこそこ上手だったのに、三女役の佐々木希の演技があまりにも薄くて姉妹としての関係性、ひいては作品全体を台無しにしてしまいそうだった。それを、長女役のミムラが優れた演技力で姉妹関係を持ちこたえさせ、同時に作品自体も立て直していた。ミムラは「後妻業の女」でも端役ではあったがなくてはならない役をきちんとこなし、短い時間でも十分に説得力のある演技をしていた。この女優さんはいつからこれほど演技が上手になったのだろうか。
他の女優では、母親役の鈴木保奈美や祖母役の多岐川裕美の演技も見事。島田陽子に至っては、もはや名人芸である。この人と原田美枝子はまだまだ主役を張れるだろう。

登場人物のそれぞれに人生がある。不安やトラウマ、または懐かしい記憶もある。そしてそれぞれの人生が時間と空間の様々なタイミングで関係し合い、影響し合う。うまくできた映画だ。そして女優さんたちは、それぞれに背負った人生をよく表現している。

しかし佐々木希の三女だけ、演技の向こうに人生が見えてこない。出番が多くないのは確かだが、それでも脚本を咀嚼して自分のものにすれば、短い演技でも複雑な女心を表現できるはずだ。特に、仕事中にウイスキーを飲んでしまう場面では、その理由を説得力のある演技で表現しなければならなかった。ところが佐々木の演技は引き出しからウイスキーを出して、ただ飲んだだけだった。三女の人生を物語る象徴的な場面なのに、残念至極である。
現状では佐々木希の演技は、喜怒哀楽のいずれかひとつしか表現できない単純なものだ。怒りのあまり泣くとか、悲しくてやりきれないのに笑うとかいったことはよくある。人間の心理は常に込み入っているものだ。顔の表情や小さな仕種ひとつでも、演技の向こうに人生が見えてこなければならない。そうでなければ観客を感情移入させることはできないし、役者としての意味がない。佐々木希の演技は薄っぺらで、役者とは言えない。顔の綺麗なモデルの域を1ミリも出ていないのだ。

映画自体の評価は4.5だったのだが、佐々木希の演技でマイナス1.5の3.0となった。しかしミムラの見事なリカバリでプラス1.0の4.0とした。ミムラはこれからも注目の女優で、映画も舞台もチェックしていくつもりだ。


映画「誰かの木琴」

2016年10月06日 | 映画・舞台・コンサート

映画「誰かの木琴」を観た。
http://darekanomokkin.com/

人間は問題を抱え続ける生き物だ。まず衣食住が不足していれば、自分の生まれや不運を嘆く、または絶望する。そして衣食住が足りると、さらなる不足を感じ、欲求不満が心に渦巻く。〝衣食足りて礼節を知る〟というのは表面的で、内心では決して礼節を知っている訳ではない。
仏教では、こういったことを煩悩と呼ぶ。煩悩は人をこの世のありとあらゆる欲望に執着させるものであり、欲望から自由にならなければ悟りの境地に達することはできず、涅槃に至ることもない。そもそも衣食住の不足を不満に思うことさえ煩悩であり、衣食住の束縛から解放されなければ、精神的な解放もないのだ。

東陽一監督が仏教を意識していたかどうかはともかく、この映画は現代の煩悩のありようをストレートに描いた作品だ。
郊外の一軒家に移り住んだ不自由のない専業主婦が、変わり映えのしない毎日に倦み、他人との関わりに充足を求めようとする。ストーカー行為は悪意から生まれるのではなく、自分への不満が動機なのだ。
人には能動的な人と受動的な人、積極的な人と消極的な人がいる。社会的な価値観について言えば、たいていの人が受動的であり、消極的である。自分の価値観だけで生きていくのは非常に困難で、社会の価値観に認められる必要がある。自己の価値観を確立して実行するよりも、社会的な価値観に従順に生きるのが楽なのだ。

そのような従順な生き方が、誰かに演奏されない限り音を発することがない木琴に例えられている。子供が無作為に演奏すると、乱雑な音を出すが、洗練された演奏者に叩かれると、美しい音色を奏でる。
そして木琴のような女性を、美しい常盤貴子が静かに、静かに演じている。自分には、現在の夫には奏でられない音色があるかもしれない。誰かに違う音色を出してほしいのだ。その静かな演技が底知れぬ狂気の膨張を感じさせ、女というものはこういう生き物なのか?と思わせる。
相手役の池松壮亮は、どこまでも普通の常識人である若い美容師を自然に演じていた。この俳優さんは随分うまくなった。

悪人は誰も出てこないのに、何故かいろいろなことが悪い方向に進んでしまう。19世紀のフランス文学に似ている印象のある映画で、「谷間の百合」のバルザックに倣って、「C'est la vie」(「これが人生なのです」)と言い切ってしまいたくなる。
静かではあるが人生の深みを覗き込ませるようないい作品である。


映画「SCOOP!」

2016年10月05日 | 映画・舞台・コンサート

映画「SCOOP!」を観た。
http://scoop-movie.jp/

一般に人が社会生活を営むには、社会から存在意義を認めてもらう必要がある。そのために大半の人は労働をする。モノやサービスを生産することで対価を得て生活するのだ。
人は自分の労働から対価だけではなく、評価も得ようとする。所謂承認欲求である。「いい仕事」という評価を得ることで、自分の存在意義に加えて存在価値までも得ようとする。
大半の人が辿るこの生き方は、無条件で肯定されている。労働での評価がその人の評価に直結し、評価を上げるために頑張ることがいいことなのだと、誰もが思っている。
社会の評価を得ることだけが人生なのかというと疑問があり、そうでない生き方をしている人々もいる。しかし現代日本では労働は憲法上の義務であり、尊重されるべき行動だとされており、あらゆる言い訳に使える大義名分である。

この映画は、仕事を一生懸命にした男を讃えるという、反論が難しいテーマの作品だ。仕事を「男の生き様」という、国家主義者が好きそうな綺麗ごとを恥ずかしげもなく表現する。確かに正論だが、正論過ぎていささかうんざりする。
しかし映画としては、意外に面白い。パパラッチという仕事は長時間の待機があり、危険な場面もあるようで、ハリウッドのアクション映画みたいなスリリングなシーンもあって、それなりに楽しめる。
文芸部に異動した部長から「いつまでもバカな芸能人のケツを追っかけてどうする、中年パパラッチ」と言われても、笑って相対化する世界観には、開き直った中年男の矜持がある。そこから観客が期待するのは、政府が転覆しかねないほどの国家的な大事件をスクープするような大きな「仕事」だ。
しかし大根仁監督には現政府を敵に回すまでの覚悟はなかったように思われる。ただ、女優を美しく肉感的に映す技術は名人級だ。吉田羊の演技には中年女のエロスが匂い立っていた。


レース結果~スプリンターズS

2016年10月02日 | 競馬

スプリンターズSの結果

1着レッドファルクス ▲
2着ミッキーアイル   無印
3着ソルヴェイグ    無印

私の印
◎ブランボヌール   11着
〇ダンスディレクター 15着
▲レッドファルクス    1着
△レッツゴードンキ    9着
△ビッグアーサー   12着

馬券は2着も3着もヌケでハズレ
ビッグアーサーが内枠で包まれて脚を余す可能性まで予想したのはよかったのだが、ミッキーアイルを外枠ということで軽視し、ソルヴェイグを前走が3着以内でなかったということで消したのが失敗。

レースは33秒4-34秒2で、勝ち時計が1分7秒6。ロードカナロアのレコードよりも0秒9も遅い。時計的なレベルが下がったことで、展開に左右されるレースになってしまった。最も展開に恵まれたのがミッキーアイルで、高松宮記念からぶっつけでも勝ち負けとなった。時計が遅かったことでどの馬もバテない展開になってしまい、馬群に包まれたままになってしまったのがビッグアーサーブランボヌールを抜いてさあこれからというときに躓いたのも大きかった。そのブランボヌールも出すところがなかった。
器用な一瞬の脚がある馬が有利で、それがソルヴェイグだった。内から差してきた脚は鋭いものがあった。

秋になっても馬券はなかなか当たらない。来週は毎日王冠。スプリンターズSの馬券が外れたので、今晩の凱旋門賞はケン。


スプリンターズS~ブランボヌール

2016年10月02日 | 競馬

スプリンターズステークスG1だ。

◎ブランボヌール
〇ダンスディレクター
▲レッドファルクス
△レッツゴードンキ
△ビッグアーサー

人気の△ビッグアーサーは、乗り方がそれほど簡単ではない。3枠の2頭シュウジベルカントがいるから前走のような展開にはならないし、器用な方ではないから内枠で包まれて脚を余す可能性もある。押さえの評価。
本命はディープインパクト産駒の3歳牝馬◎ブランボヌールだ。1200mは3戦3勝で底を見せていないし、休み明けの前走キーンランドカップを勝っての臨戦過程も見劣りしない。
シルクロードSと阪神カップで△ビッグアーサーに先着している〇ダンスディレクターが強敵。休み明けのセントウルSは7着だが、それまでは1200mが2、3、0、0の成績。若い浜中騎手にも期待ができる。
連勝中の▲レッドファルクスの勢いも侮れない。この馬も1200mが3戦3勝だ。
△レッツゴードンキは前走で逃げたシュウジが残る展開で中段から追い込んできての3着。1200mにも慣れてきたようだし、掲示板はありそうだ。

馬券は3連単フォーメーション◎〇▲-◎〇▲△△(2、11、13-1、2、11、12、13)36点勝負


映画「君の名は。」

2016年10月01日 | 映画・舞台・コンサート

遅れ馳せながら、映画「君の名は。」を観た。
http://www.kiminona.com/index.html

よくできたアニメである。
主人公は三葉と瀧の二人。三葉は家族や家柄などが詳しく描かれているが、瀧は個人情報が少ないように思える。それでも、父親との会話などからいくつかわかる部分がある。
朝食を父と息子の当番制にしているということは、母親が不在だ。母親の単身赴任は考えづらいから、おそらく亡くなったのだろう。そのことと、バイト先の先輩に特別な感情を持つことから、瀧は母性に魅かれる面があると考えられる。朝食を息子と当番制にする父親は、息子の人格を尊重して対等に接している。だから瀧は父子家庭でもいじけることなく、状況を受け入れるキャパシティがある。人格交代のアクシデントを受け入れることができたのもそのキャパシティのおかげだ。
対して三葉は、幼いころに母を亡くし、父も家を出て行って、祖母と妹の3人暮らしである。家業の神社を守る仕事があり、芯の強さがある。母性を求める瀧との相性がいいのはそのためだ。
両方とも父子家庭だが、人間関係が複雑で問題を抱える三葉に対して、瀧の方の人間関係を単純にすることでバランスを保っている。

さて作品についてだが、原作の漫画を読んでいないので、先入観といえばタイトルと予告編だけ。戦後の「君の名は」というラジオドラマと映画が有名で、数寄屋橋ですれ違う有名なシーンのイメージがあった。この映画でも最後の方で歩道橋ですれ違うシーンがあり、数寄屋橋インスパイアかと思ってしまった。たぶん違うだろうが。
予告編では男の子と女の子の心が入れ替わるということしかわからなかったので、大林宣彦の映画「転校生」みたいなものかと思っていた。しかしほのぼのとした日常を描いた映画ではなく、驚きのストーリーだった。
入れ替わるのは見知らぬ男女で、離れた場所にいて入れ替わる。そして超えるのは空間だけではない。ややこしい人間関係はないが、その代わりに〝忘れたころにやってくる〟大きな事態が起きる。その展開に翻弄されつつも、主人公たちは互いのためにいま何をなすべきかを考え、そして実行する。
盛り沢山のファンタジーを107分の映画に詰め込んでいて、すべてのシーンに意味があり、一瞬も見逃せない。高評価は当然だ。

三葉の声を演じた上白石萌音は「舞妓はレディ」の演技も高く評価していたが、声優としてもなかなかのポテンシャルを持っている。歌もうまい。雰囲気が昭和なので、そのうちNHKの連続テレビ小説のヒロインにでも抜擢されそうだ。