三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「沖縄スパイ戦史」

2018年08月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「沖縄スパイ戦史」を観た。
 http://www.spy-senshi.com/

 三上智恵監督の作品は、3年前の2015年に「戦場ぬ止み」(いくさばぬとぅどぅみ)を観て以来である。前年の2014年に特定秘密保護法が施行されて、反体制の言論人は危機感を強めていたときである。よくこんな映画が公開できたものだと感心したことを憶えている。特定秘密保護法は、国連や海外メディアをはじめ、世界中から日本の言論と報道の自由についての懸念が表明された。
 ちょうどその頃、山尾志桜里が国会で精神的自由が経済的自由に優先する理由をアベシンゾウに説明を求めたが、総理大臣は憲法の基本概念であるこんな質問にも答えられなかった。「急に聞かれてもわかりませんよ」とニヤついていた顔を、腹立たしく思い出す。
 2017年には組織犯罪処罰法が成立、施行されて、権力による言論弾圧がますますやりやすくなった。山城博治さんが逮捕されたのはその少し前である。

 さて今回の映画は、護郷隊の物語を中心に、かつての日本軍が何をしたのか、そして現代の日本軍が何をしようとしているのかを具体的な証言によって炙り出した作品である。タイトルの中の「スパイ」は多義的に使われていて、陸軍中野学校で訓練された文字通りのスパイ軍人と、軍によって密告や相互の処刑が強要された、民衆の中のスパイがある。また、そうした状況下での「スパイ」という言葉が民衆に与える不安と恐怖は名状しがたい。民衆は善悪の判断よりも自分が生き残ることで精一杯であった。

 理解しがたいことだが、世の中には国家と自分をダブらせて、国家のアイデンディティと同化してしまう人がいる。国とはこういうものでなければならず、国民は国のために尽くさねばならぬ、そして国の発展に寄与し、諸外国と対等以上の優位な関係を築き、国家としての確固たる威信を構築する、それが即ち国体というものであるみたいな、イカれているとしか思えない思想の持ち主がいる。
 そういう人たちにとって国民主権と平和主義、基本的人権を謳う日本国憲法は邪魔で仕方がない。日本は軍備を増強して世界に伍していくのだと、戦後73年たっても本気で信じている人たちなのだ。
 思えば大正デモクラシーからしばらくは、日本は平和であった。軍隊はあるにはあるが、今の自衛隊みたいなもので、庶民には縁遠いものであった。選挙もあったがご近所の先生に投票しておけばよかった。その後近所の先生がいつの間にか帝国主義者の仲間入りをしているとも気づかないうちに。

 平成最後の夏も、かつての戦争前夜のように平和である。日本がこれから戦争をする国になると思っている人は少ないだろう。ただ、危惧している人はたくさんいる。そういう人は、ご近所の先生に投票することがどんな結果を招くかを説く。しかし民衆は誰も聞く耳を持たない。
 ドストエフスキーは「悪霊」の中で「人々はパンのために喜んで自由を投げ出す。人生は不安であり、恐怖である。いま人が生を愛するのは不安と恐怖を愛するからである」と喝破した。その真実はキリストの昔から今まで、ちっとも変わっていない。日本はもちろん、人類は今後も破滅に向かって一直線に突き進み、絶滅の道をたどるだろう。
 霊長目ヒト科ヒト属ヒトに代わる種が、次の地球を生きるのだろう。それは決して悪いことではないが、人類にとっては悲観すべき未来である。


映画「君が君で君だ」

2018年08月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「君が君で君だ」を観た。
 https://kimikimikimi.jp/

 かつて通っていた大学のフランス文学科は総勢66人のうち、男子44人に対して女子が22人だった。受講する科目は人それぞれなので、同じクラスといっても必ずしも仲がよくなる訳でもなく、男女比も特に意味を持たなかった。
 しかし22名の女学生の中にひとりだけ、おっとりした育ちのいい感じの美人がいた。入学して間もなく、同じ仏文科のクラスの男子学生のほとんどが彼女をとても好きになった。誰もが彼女と会えることを楽しみに通学していたと思う。もちろん当方もそのひとりであったが、多くの男子たちと同様に、彼女と付き合いたいというよりも、遠くから眺めていることで満足していた。それは2次元のアイドルを大切にするオタクたちの心理に似ていて、彼女の存在が心の中にある灯のように光と熱を与えてくれていた。しかし心の奥底で、いつかみんなに祝福されながら彼女と結ばれることを微かに夢見ている部分もあった。文学部だったので彼女を漱石の「坊ちゃん」に出てくるマドンナと重ね合わせ、いつしか男子学生は皆、彼女を名前ではなくマドンナと呼ぶようになった。
 この映画を見て、学生時代を思い出し、マドンナを思い出した。マドンナのいた4年間の学生生活は、マドンナのいない4年間を考えてみたとき、かなりマシな4年間だったと思う。本作品の3人の若者たちにとって、韓国人女性のソンはマドンナだったのである。マドンナは彼女でもなく、恋人でもなく、ましてや婚約者でもなく、マドンナはマドンナなのだ。そしてただ生きているだけで自分たちの心に灯をともしてくれる、あたたかい存在なのである。

 池松壮亮がいい。この世界に何の望みも持てなくても、彼女を見つめていることで生きていけるという若者独特の気持ちを、ストレートにではなく様々な行動や言葉、表情であぶりだすように表現する。物語が進んでいくのにつれて、彼らの気持ちがだんだんわかってくる。その気持ちは次第に、向井理が演じたチンピラにも伝わっていく。心に灯をともす存在は誰にとっても必要な存在なのである。
 必死で青春を生きた彼らの姿に、人生の切なさがこみあげてくる。人の心を上手に描いた佳作である。


映画「カメラを止めるな!」

2018年08月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「カメラを止めるな!」を観た。
 http://kametome.net/index.html

 少し説明がややこしいが、ゾンビ映画を撮影していると本当にスタッフがゾンビになってしまうという生放送のドラマを撮影する人々の群像劇である。ドタバタのギャグ映画で、アイデアと瞬発力でドラマを撮り切ろうとするところが憎めないし、笑える。
 説教がましさもないし、妙なパラダイムも全体主義も登場しない。とことん日常的な一般人が、無茶な企画に対して、それぞれの趣味や思い込みを織り交ぜつつ、一刻の猶予もない生放送を乗り切っていくだけの話なのだが、現代でこういうニュートラルな映画を作成できたことが素晴らしい。
 かつて夢中になって読んだ筒井康隆のスラップスティックの短編を懐かしく思い出したが、似たようなドタバタ劇がこんな風に映像化出来るとは思ってもみなかった。まさに映画好きによる映画好きのための映画と言っていい作品で、オリジナルの映画としては久々のスマッシュヒットである。二重三重のネタばらしがあって、見終わったあとの爽快感はかなりのものだ。
 一度満席で観られなかった作品で、そういったときは縁がなかったとして再挑戦することはあまりないのだが、この作品だけはどうしても見たくて、その後席を予約することができて鑑賞した。観てよかったと思う。