映画「映画 イチケイのカラス」を観た。
法によって統治する国を法治国家と言う。それに対して、法によらず、統治者とその集団が個人的な思惑によって恣意的に統治する国を人治国家と呼ぶ。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は典型的な人治国家で、独裁者の金一族が何でも決めてしまい、国民に強制する。金一族に対する尊敬をも強要することから、個人の内心の自由さえ認めない体制であることが分かる。
アフガニスタンのタリバンのようにイスラム教原理主義によって統治する国も、人治国家のひとつだ。宗教とその戒律を強制する訳で、こちらにも内心の自由がない。
強制するという意味では、法治国家も国民に法の遵守を強制する。しかしそれによって個人間に有利不利が生じたり、個人の内心の自由が損なわれたりしなければ、人治国家と区別することができる。それに法治国家には憲法がある。国会議員は違憲の立法はできないし、内閣は違憲の閣議決定はできないし、裁判官は憲法に反した判決を下すことはできない。憲法が統治者を制限するから法治国家なのだ。
問題は、法に様々な解釈の違いがあることだ。民主主義の政治家は憲法を国民の利益や福祉のためになるように解釈するが、国家主義の政治家は憲法を自分の都合に合うように解釈する。違憲ではないと言い張って、国会で議決してしまえば、法律や施行規則や施行令は成立してしまう。法治主義の実質的な崩壊である。
そうならないためには政治家の矜持に期待するしかないが、どういうわけか、矜持のない政治家ばかりが当選して多数派を占める。世界各国も似たりよったりで、多くの法治国家が人治国家に堕してしまっている状態が現在の世界のありようだ。選挙が正しく行われているのであれば、それが有権者の望みだと諦めるより他にない。
日本においては、国会議員と最高裁裁判官が癒着していれば、違憲立法審査権が機能せず、どんな立法も合憲とされてしまう。最高裁裁判官の国民審査は形骸化していて、罷免された裁判官はひとりもいない。日本の政治を決めるのは、実際には選挙だけだ。憲法を無視する政治家が多数を占めれば、行政も立法も司法も牛耳られて、憲法が権力者を統治できなくなる。法治主義の完全な崩壊である。日本はすでにそうなっている。
本作品を観て沖縄の現状を想起した人もいると思う。米軍基地が存在することは、平和主義の観点からも、独立国としての立場からも、海兵隊の暴力にさらされる住民の立場からも、いずれも反対だ。しかし経済面で米軍基地に依存している部分は多くある。だから選挙では辺野古移設賛成派が勝ったり反対派が勝ったりする。沖縄県民の心は揺れているのだ。もし沖縄県が一枚岩で辺野古移設反対だったら、菅義偉官房長官の「粛々と工事を進める」と木で鼻をくくったような答弁など出来なかった筈である。
日本全体を覆う闇に対して、ひとりの裁判官に何が出来るのか。それが本作品の主たるテーマである。ちなみに防衛大臣の秘書官らしき中年男が「一介の裁判官が・・・」と言いかけるが、大臣がその発言を遮る。「一介の」は謙遜するときに使う言葉で、上から圧力をかけるときに使うのは品位に欠ける。「お前みたいな取るに足らない裁判官ふぜいが・・・」と言っているのと同じで、頭の悪いヤクザの親分レベルだ。このシーンは防衛大臣の頭脳明晰さを表現するシーンと言っていいだろう。
沖縄の米軍基地は、日本の補助金で運営されている。「思いやり予算」というやつだ。補助金は国民の税金だから、米軍関連で生活している人は、日本の税金で生活しているに等しい。この構図からすると、米軍に出て行ってもらって、沖縄は沖縄県民の力で守っていく方向性が正しいように思える。それは沖縄県民だけの問題ではない。
竹野内豊が演じた入間みちおの主張は明快である。法の主眼は人権を守ることにある。人の命や健康を犠牲にした上で成り立つような社会は、あってはならないのだ。それが法の精神だ。入間みちおの言葉は、駐留米軍がもたらす被害や、未だに解決されない福島原発事故、そしてこれから起きるかもしれない原発事故のすべてに向かって発せられていると言える。人権を犠牲にした社会でいいのかどうか、国民全員に向かって、覚悟を決めなさい、と言っているのだ。