三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「映画 イチケイのカラス」

2023年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「映画 イチケイのカラス」を観た。
映画『イチケイのカラス』公式サイト

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映画『イチケイのカラス』が2023年1月13日(金)公開決定! 自由奔放なクセ者裁判官・入間みちお役に竹野内豊、超ロジカルなエリート裁判官・坂間千鶴役に黒木華が続投。今...

 

 法によって統治する国を法治国家と言う。それに対して、法によらず、統治者とその集団が個人的な思惑によって恣意的に統治する国を人治国家と呼ぶ。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は典型的な人治国家で、独裁者の金一族が何でも決めてしまい、国民に強制する。金一族に対する尊敬をも強要することから、個人の内心の自由さえ認めない体制であることが分かる。
 アフガニスタンのタリバンのようにイスラム教原理主義によって統治する国も、人治国家のひとつだ。宗教とその戒律を強制する訳で、こちらにも内心の自由がない。
 
 強制するという意味では、法治国家も国民に法の遵守を強制する。しかしそれによって個人間に有利不利が生じたり、個人の内心の自由が損なわれたりしなければ、人治国家と区別することができる。それに法治国家には憲法がある。国会議員は違憲の立法はできないし、内閣は違憲の閣議決定はできないし、裁判官は憲法に反した判決を下すことはできない。憲法が統治者を制限するから法治国家なのだ。
 
 問題は、法に様々な解釈の違いがあることだ。民主主義の政治家は憲法を国民の利益や福祉のためになるように解釈するが、国家主義の政治家は憲法を自分の都合に合うように解釈する。違憲ではないと言い張って、国会で議決してしまえば、法律や施行規則や施行令は成立してしまう。法治主義の実質的な崩壊である。
 そうならないためには政治家の矜持に期待するしかないが、どういうわけか、矜持のない政治家ばかりが当選して多数派を占める。世界各国も似たりよったりで、多くの法治国家が人治国家に堕してしまっている状態が現在の世界のありようだ。選挙が正しく行われているのであれば、それが有権者の望みだと諦めるより他にない。
 
 日本においては、国会議員と最高裁裁判官が癒着していれば、違憲立法審査権が機能せず、どんな立法も合憲とされてしまう。最高裁裁判官の国民審査は形骸化していて、罷免された裁判官はひとりもいない。日本の政治を決めるのは、実際には選挙だけだ。憲法を無視する政治家が多数を占めれば、行政も立法も司法も牛耳られて、憲法が権力者を統治できなくなる。法治主義の完全な崩壊である。日本はすでにそうなっている。
 
 本作品を観て沖縄の現状を想起した人もいると思う。米軍基地が存在することは、平和主義の観点からも、独立国としての立場からも、海兵隊の暴力にさらされる住民の立場からも、いずれも反対だ。しかし経済面で米軍基地に依存している部分は多くある。だから選挙では辺野古移設賛成派が勝ったり反対派が勝ったりする。沖縄県民の心は揺れているのだ。もし沖縄県が一枚岩で辺野古移設反対だったら、菅義偉官房長官の「粛々と工事を進める」と木で鼻をくくったような答弁など出来なかった筈である。
 
 日本全体を覆う闇に対して、ひとりの裁判官に何が出来るのか。それが本作品の主たるテーマである。ちなみに防衛大臣の秘書官らしき中年男が「一介の裁判官が・・・」と言いかけるが、大臣がその発言を遮る。「一介の」は謙遜するときに使う言葉で、上から圧力をかけるときに使うのは品位に欠ける。「お前みたいな取るに足らない裁判官ふぜいが・・・」と言っているのと同じで、頭の悪いヤクザの親分レベルだ。このシーンは防衛大臣の頭脳明晰さを表現するシーンと言っていいだろう。
 
 沖縄の米軍基地は、日本の補助金で運営されている。「思いやり予算」というやつだ。補助金は国民の税金だから、米軍関連で生活している人は、日本の税金で生活しているに等しい。この構図からすると、米軍に出て行ってもらって、沖縄は沖縄県民の力で守っていく方向性が正しいように思える。それは沖縄県民だけの問題ではない。
 
 竹野内豊が演じた入間みちおの主張は明快である。法の主眼は人権を守ることにある。人の命や健康を犠牲にした上で成り立つような社会は、あってはならないのだ。それが法の精神だ。入間みちおの言葉は、駐留米軍がもたらす被害や、未だに解決されない福島原発事故、そしてこれから起きるかもしれない原発事故のすべてに向かって発せられていると言える。人権を犠牲にした社会でいいのかどうか、国民全員に向かって、覚悟を決めなさい、と言っているのだ。

映画「ブラック・サイト 危険区域」

2023年01月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ブラック・サイト 危険区域」を観た。
ブラック・サイト 危険区域 : 作品情報 - 映画.com

ブラック・サイト 危険区域 : 作品情報 - 映画.com

ブラック・サイト 危険区域の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。家族を殺されたCIAエージェントと凶悪テロリストの死闘を描いたバイオレンスアクション...

映画.com

 トム・クランシーやロバート・ラドラムの小説を集中して読んだ時期がある。CIAのエージェント(代理店ではなく現場工作員)が活躍する物語が多かったが、トム・クランシーの方には、本部のアナリストのジャック・ライアンを主人公にしたシリーズがあり、ライアンはCIA長官から最終的には大統領にまで昇りつめる。
 CIAは情報収集と分析によって外交政策や軍事戦略に大きな影響を及ぼす極めて政治的な組織なのである。だから方針は政治に左右されるし、その職員出身の政治家が出現するのも、ある意味で当然のことだろう。
 
 公務員は本来国民のために働くのが義務だが、大方の公務員は権力者のために働いている。CIAのような組織は特にそうで、アメリカの富と権力者の地位保全のためには、法など無関係だ。世界各国に現場工作員を駐在させて、情報収集のために拉致したり拷問をしたりする。
 戦後の日本でも、出来たばかりの組織だったCIAが暗躍し、岸信介を取り込んでアメリカの思うがままの政権を作った。その流れは現在も続いている。歴代の自民党の首相は悉くアメリカに尻尾を振ってきた。それはCIAに尻尾を振ってきたのと同じことだ。アメリカのポチは即ちCIAのポチなのである。
 唯一アメリカに正面から反抗した総理大臣は鳩山由紀夫で、普天間基地の移転先を「最低でも県外」と主張してアメリカの逆鱗に触れ、母親から金をもらっていたという違法でもない行為であっという間に総理を降ろされた。CIAの恐ろしさを日本の政治家が改めて認識した瞬間でもあった。辺野古反対を正面から訴えた鳩山が宇宙人と呼ばれたのも無理からぬことだ。
 
 本作品のタイトル「ブラック・サイト」はCIAが世界各地に持っている隠し施設である。そこでは、アメリカ国内では出来ない拉致や拷問などの違法行為が日常的に行なわれていることが、本作品を観ればわかる。責任者であるアビが「法に従って」と発言したのを職員の元軍人がせせら笑うのはそのせいだ。施設の存在そのものが違法なのに、中での行為を順法にしたところで何の意味もない。
 
 導入からラストまで、プロットはよく出来ている。ハチェットが戦闘力と知識に長けた恐るべき存在であることが本作品が成立する条件で、演じたジェイソン・クラークの演技は大した迫力だった。知られていないはずの隠し施設の中を、ハチェットはどうして自由自在に動き回る事ができるのか、その理由がラストになって判明するのも面白い。
 そしてラストシーンには、CIAという組織の本質を暴露する意味もある。ハッとした観客もいただろう。そして1947年の設立以来、CIAが何をしてきたかに思いを馳せた人もいると思う。日本も戦後から今日まで、CIAの影響を受けずにいられなかった。
 
 三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収したことがあったが、その直後に日本経済のバブルが崩壊し、すぐに手放すことになった。小泉竹中改革で市場原理主義が導入されて以降、日本経済は右肩下がりであり、研究開発費は削られて、世界経済のシーンで後れを取ることになってしまった。郵政民営化などはアメリカが提示した「年次改革要望書」に書かれてあることだった。
 すべてがCIAの陰謀とは言わないが、情報収集と分析、的確な施策を実施することで、アメリカが日本経済を崩壊させたことは間違いない。鳩山由紀夫と小沢一郎はそのことを知っていたフシがある。そして失脚してしまった。
 残念ながら現在の日本の政治家や官僚には、アメリカに異議を唱えるような器量のある人物はあまりいなそうである。今後もアメリカの「年次改革要望書」に従って、日本の技術と労働力をアメリカに差し出し続けるに違いない。その報酬が自分の政権の維持なのだから、日本国民はいつになっても浮かばれない。

映画「ファミリア」

2023年01月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ファミリア」を観た。
映画『ファミリア』公式サイト

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「ファミリア」は多義的なタイトルである。家族、仲間の意味はもちろんのこと、親しみや馴れ馴れしさの意味もある。見ず知らずの人同士が出逢う縁(ゆかり)の意味もあると思う。

 役所広司が演じる主人公神谷誠治と、彼に関わり合う人々の物語だ。妻と妻の家族、息子とその妻、同じ施設で育った幼馴染、それに近所に住むブラジル人移住者たち。
 では半グレたちの関係性はどうか。地元の有力者の息子を中心に悪事を働く。金で出来る贅沢だけが唯一の楽しみだ。つるんでいれば金儲けが出来るから一緒にいるだけで、互いの精神的なつながりは髪の毛一筋ほどもない。徹底的にビジネスライクである。ヤクザと同じだ。彼らの関係性にはファミリアはないのだ。

 成島出監督らしいヒューマニズムが全編に鏤められていて、愛情や思いやりや優しさが伝わってくる。無私の行為、無償の行為、無条件の愛情は、それだけで感動に値する。対して復讐は偏狭で不寛容な心である。
 誠治と半グレ集団の対比は寛容と不寛容の対比そのままだ。かつて迷惑をかけられたブラジル人青年を助けるために尽力するのは、立派な精神性だと思う。

 オウム真理教が起こした松本サリン事件で、最初に犯人扱いされた河野義行さんがまさにそういう精神性の人だった。長野県警から推定有罪の捜査をされて、本人は言わないが拷問まがいの取り調べもあったと思う。その後疑いが晴れて、マスコミや当時の官房長官の野中広務が謝罪したが、長野県警は最後まで謝罪しなかった。
 当時の長野県知事田中康夫は、驚いたことに、河野さんを長野県の公安委員長に登用した。公安委員会は県警本部の上部組織である。そこでやっと、長野県警は河野さんに謝罪したのだが、とても見苦しい組織だということを全国に知らしめてしまった。田中康夫は普通にまともな政治家というだけだったが、河野さん登用の一点だけで尊敬に値する知事になった。小池百合子には逆立ちしても出来ない登用だろう。
 河野さんはその後、服役を終えて出所した元オウム信者を、庭師として雇い入れ、一緒に入浴したり、親しくしていた。人を恨むのは時間の浪費だという考え方である。大した人格者だ。まことにもって恐れ入る。

 本作品の誠治も、河野さんほどの崇高な精神性ではないが、別け隔てなく人に優しくする。とにかく役所広司が上手い。主人公の誠実な人柄を存分に表現した。流石としか言いようがない。不寛容代表の坊っちゃんを演じたMIYAVIもよかった。映画「ヘルドッグス」の悪役ぶりはやや軽かったが、半グレのカシラにはぴったりだ。

 何本か鑑賞した監督作品や脚本作品の傾向からすると、成島監督の願いは、寛容と優しさが不寛容を駆逐してほしいということだと思う。しかし現代の世界は正反対だ。政治も社会も不寛容がエスカレートしている。日本だけではなく、世界的な傾向でもある。不寛容の最たるものが戦争だ。ウクライナ戦争を例に出すまでもない。
 成島監督は戦争に向かおうとしている世界の精神性を危惧しているように感じる。真の平和は他人を許すことからしか始まらない。いつか寛容と優しさが人類の主流の精神性になる日が来ると信じていなければ、世界に平和は永久に訪れない。本作品は諦め九分、期待一分みたいな印象だが、どこかホッとするものがあった。

映画「ドリーム・ホース」

2023年01月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドリーム・ホース」を観た。
映画『ドリーム・ホース』| 公式ページ | CineRack(シネラック)

映画『ドリーム・ホース』| 公式ページ | CineRack(シネラック)

欲しいのは、胸の高鳴り。イギリス・ウェールズで起きた奇跡の実話をトニ・コレットが熱演。2023.1.6(金)新春ロードショー

CineRack(シネラック)

 競馬に詳しくなくても楽しめる作品だが、ある程度競馬を知っている人なら、かなり興奮すると思う。当方はときどき馬券を買うので、お蔭様でとても楽しめた。

 グレートブリテン島はイングランドとスコットランド、ウェールズの3地域に区分されていて、それぞれに歴史的、文化的な特色がある。昨年(2022年)亡くなったエリザベス二世の夫はエディンバラ公であり、スコットランドの都市に因んでいる。
 ウェールズは公用語が英語とウェールズ語であり、民族は言語と切り離せないから、文化的、風俗的にイングランドやスコットランドとは一線を画している。

 現在の競馬先進国のレースでは、ゲートスタートが一般的だが、一昔前までは本作品のレースのようなバリアスタートが行なわれていた。スタートラインの後方に適当に集まり、位置や姿勢が揃ったところで旗を振ってジョッキーたちに合図し、ロープを跳ね上げる。
 ゲートのストレスはないが、スタートの有利不利が大きかった。そのために初期の競馬はスタートの不利を挽回できる長距離レースが多かったのではないかと、当方は考えている。本作品のレースも2マイルから3マイル強で争われている。3200メートルから5000メートルだ。

 馬の走り方は歩様といって、ダク(歩く)トロット(ちょっと走る)キャンター(ジョギングくらい)ギャロップ(全力疾走)みたいな分け方をする。西部劇でカウボーイが乗っている馬の走り方はせいぜいキャンターである。ギャロップは競走馬の走り方だ。
 馬はギャロップではあまり長い距離を走ることができない。長距離レースといっても最大が3マイル程度である。ちなみに日本の中央競馬で再長距離のレースはステイヤーズステークス(中山競馬場の3600メートル=2マイルと2ハロン)である。ある程度以上のスピードで40キロ超の距離を走れるのは人間だけらしい。

 馬主は会社経営や医者、芸能人、スポーツ選手といったイメージだが、一口馬主といって、シンジケートに入れば馬主になることができるシステムがある。本作品は自分たちでシンジケートを作って、町の人々に馬主になってもらい、一緒にその馬を応援するというほのぼのした物語である。ただし、馬主が儲かることは殆どない。
 一頭の馬の活躍がうらぶれた町の人々に希望や活力を与えるという素直な展開だが、郷土愛という下地があってこその応援であり、夢である。国の代表のスポーツ選手を応援するのと似ているが、自分たちですべてのお金を出して仔馬を誕生させて育てるところに、国のやっていることにただ乗っかるだけの国家主義者たちとの大きな違いがある。
 馬は国を背負ったスポーツ選手ではない。自分たちの夢を乗せて走るのだ。ある意味で家族である。だからまず願うのは、勝利よりも怪我をせずに無事に回ってくることだ。母親のような愛情である。そこに無条件の感動がある。田舎町を差別しすぎない競馬の実況や、素人馬主集団をあたたかく見守る新聞記事が、イギリス人らしくてよかった。よくできたエンタテインメント作品だと思う。

映画「非常宣言」

2023年01月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「非常宣言」を観た。
映画『非常宣言』オフィシャルサイト

映画『非常宣言』オフィシャルサイト

2023年1月6日(金)全国公開|第74回カンヌ国際映画祭正式出品 高度28,000フィート バイオテロ発生。それぞれの選択が運命を決める――

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 エンドロールで流れたドビュッシーのピアノ曲「月の光」は、同じテーマのベートーヴェンのピアノソナタ「月光」とは印象がかなり異なる。ベートーヴェンの曲が冷たく青白い月を想像させるのに対して、ドビュッシーの曲は赤くて暖かい光が柔らかく降り注ぐイメージだ。そのせいか、作品の印象が肯定的なものになったと思う。

 プロットはよく出来ている。日常的な小さな出来事がいくつか起こり、それらが次第に大きな出来事であることが判明し、更に互いに関連して急激に極限状況へと変化していく。サスペンスとしては王道のストーリーである。
 説明的な台詞はほとんどないが、役者陣の達者な演技によって物語はスピーディーにわかりやすく展開する。あるシーンはじっくりと描き、あるシーンは役者の表情だけといった、自由で多彩な演出も見事だ。

 知ったかぶりのプロファイリングをする質問者に対して国土交通大臣が答える「世の中には理解不能な悪意が存在する」という台詞が、本作品の世界観の中核をなしている。
 それはつまり、バイオテロリストだけではなく、他人の人権を蹂躙することに快感を覚える人間たちが広く世界に存在するということだ。ネットで他人の人格を否定する人々の多くも、そういう人間たちだと思う。復讐や正義といった理由は、悪意を隠すために後付けされた大義名分に過ぎない。
 韓国でも事情は大差ないだろう。作品中に登場するアンケートの結果は、凡そ半分の人に悪意があることを暗喩している。そしてこの傾向は世界的にも同じなのではないかと、当方は危惧している。戦争に向かおうとするマグマが滾っているのだ。

 鑑賞中はずっと情緒を揺さぶられる感じで、サスペンスとして優れた作品であることが分かる。加えて、各国の人々の自分勝手な悪意を描いているという多層構造になっている。戦闘機に国民の悪意を象徴させたのは秀逸なアイデアだ。しかしアンケートは約半数の善意の人々がいることも示している。未来は必ずしも絶望的ではないということを、ドビュッシーの曲で表現してみせた訳だ。とても面白かった。

映画「REVOLUTION+1」

2023年01月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「REVOLUTION+1」を観た。
REVOLUTION+1 : 作品情報 - 映画.com

REVOLUTION+1 : 作品情報 - 映画.com

REVOLUTION+1の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「赤軍派 PFLP 世界戦争宣言」「略称連続射殺魔」などの監督作で知られ、元日本赤軍メンバーという経...

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 いま観ておかないと一生観られないかもしれないという危機感から、隣県の未訪の映画館に行って鑑賞してきた。大晦日の午後だが、4割くらいの客入りである。ガラガラを予想していたから少し意外だった。それなりに関心を集めている作品なのだ。
 日本赤軍の元メンバーが監督だけあって、言葉に頼りがちというか、主人公山上徹也の理論武装みたいな独白が主体である。そのため、やや頭でっかちな印象の作品になってしまったことは否めない。
 しかし幼い頃から人権を蹂躙されてきた怒りが、山上の心の中で決して消えることなく燃え続けていることは伝わってきた。アベシンゾーを射殺するには十分な動機である。
 自意識が目覚めると同時に、自分の家の異常さに気がついたのだろう。家庭を崩壊させても、少しも自分を省みない狂信者の母親と、それを止められずに自殺してしまった弱い父親。身体も心も病んで自殺した兄。これで統一協会を恨まないほうがおかしいくらいだ。
 
 テロでは世界は変わらないとよく言われる。確かにアベシンゾーを殺しても何も変わらなかった。それは一人二人を殺すからかもしれない。例えば国会議員の全員を殺したらどうだろうか。永田町で段階兵器(水素爆弾など)を爆発させたらどうなるか。その場合は確実に世界は変わるだろう。しかし望んだ方向に変わるとは限らない。むしろ暴力に対してさらなる暴力で応じようとする傾向が強くなるに違いない。
 
 アベシンゾーが射殺されたあとの参院選の結果は、自民党や公明党が勝った。対抗勢力の日本共産党やれいわ新選組は票を伸ばすことができなかった。テロで世界が変わらない理由は、参院選で与党勢力が勝った理由と同じだ。つまり国民が平和や平等や自由を望んでいないのである。
 自分だけが得をする世界が続いてほしいのだ。いまは貧しい人も、みんなが金持ちになるのではなく、限られた人間だけが金持ちになって、自分がそのひとりになりたいのだ。逆に言えば、人権を蹂躙される人がたくさんいても、自分さえ人権を謳歌できればそれでいいのだ。
 自分を国に置き換えても同じである。日本だけ豊かになればいい。貧しい国は放っておいて構わない。だって、貧しい国がなければ、自分たちが豊かになったことがわからないだろう。世の中の全員がベンツに乗っていたら、ベンツを自慢できなくなるだろうと言っているのと同じだ。日本の有権者の過半数は、優しさも寛容さも人権意識も何もない。だから格差や差別を助長する自民党や公明党や維新が勝つ。
 
 テロでは世界は変わらない。しかしそれ以外の方法でも、世界は変わらない。戦争をして、痛い目に遭って、反省して、平和を願う。何十年かは平和が続くかもしれないが、戦争を忘れた世代が、またぞろ格差と差別を求めて戦争を始めるのだ。それが人類の歴史である。人類は救いようがないのだ。
 しかしせめて、自分とその周囲の人々だけには、優しさと寛容さを維持してもらいたい。人から優しくされた感謝の気持だけが、優しさを生むことができる。戦後民主主義を護ってきた日本国憲法の精神を維持するためには、結局のところ、ひとりひとりが他人に優しくするしかないのかもしれない。それは途方もなく長い道のりであり、数千年ではかなわないかもしれない。
 
 あと数分で2023年である。毎年年末に徹子の部屋のゲストになるタモリさんが、来年は新しい戦前になるだろうと予言した。その予言はおそらく実現するだろう。めげずに寛容な心を持ち続けるより他に、残された生き方はないだろう。