三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「そして僕は途方に暮れる」

2023年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「そして僕は途方に暮れる」を観た。
『そして僕は途方に暮れる』公式サイト

『そして僕は途方に暮れる』公式サイト

2023年1月13日(金)公開「そして僕は途方に暮れる」三浦大輔監督×藤ヶ谷太輔主演!逃げて、逃げて、逃げまくる――、人生を賭けた逃避劇。共感と反感の連続、予測不能なスト...

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「生まれてきてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」

 アベシンゾーのような自己愛性パーソナリティ障害でもない限り、家族や親類や世間様に対して、多少はそんなふうな申し訳ない気持ちになることがある。
 主人公菅原裕一の周囲の人々は、社会のパラダイムの代表だ。浮気はいけない、人には感謝しなければならない、定住して定職に就かなければならない、親孝行しなければならない。そんなパラダイムが支配的な社会は、テキトーでいい加減な裕一にとって不自由な社会である。かといって、トヨエツの演じた父親のように、何に対しても、誰に対しても、一切責任を取らず逃げ回るのは生きづらい。夏目漱石が「草枕」の冒頭に書いた通りである。

 だから裕一が手に入れた手段は、すべてを曖昧にしてしまうことだ。人と向き合って話をしない。何か言われたら、ちゃんと返事をせずに中途半端な笑顔と呟くような「おぉ・・」という返事で済ませる。将来のことなど考えない。明日死んでもいい。なんとか一生を曖昧なままに逃げ切りたい。
 しかしいざそうやって逃げ切ろうとしている父親を見ると、これでは駄目だと思ってしまう。人間は社会から逃げたいと同時に、社会と関わらないと生きていけない。多くの人の悩みがそこにある。鬱病になる原因も殆どが人間関係だ。無人島に鬱病はない。

 戦前にはお国のために死ぬというパラダイムがあったが、いまではそんな人権無視のパラダイムは完全に否定されている。浮気はだめだとか、親孝行しなければならないとかいうパラダイムもそのうち時代遅れになるだろう。定職につかなければならないというパラダイムは、そもそも企業が非正規雇用をさらに増やそうとしている現在の日本では、なかなか難しい話だ。

 パラダイムを簡単には信じることができないのは、裕一が馬鹿ではないという証拠である。パラダイムは簡単に変わったりなくなったりするものだ。そんなものにすがって、自分は大丈夫だと考えている世間の人々の方に無理がある。
 裕一に明日はない。しかし自由はある。明日と引き換えに自由を投げ出す方がよほど勇気のない生き方ではないのか。明日のパン、明日の住居、明日の衣服のために今日の自由を投げ出すのは、奴隷の生き方ではないのか。
 そんな主張は誰にも響かないかもしれない。しかし、自分たちの現在の状況が必ずしも盤石ではないということはみんな知っている。明日の不安に苛まれつつも、自由気儘に今日を過ごし、いつか野垂れ死ぬであろう裕一の生き方は、必ずしも否定されなくていい。

映画「映画 イチケイのカラス」

2023年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「映画 イチケイのカラス」を観た。
映画『イチケイのカラス』公式サイト

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映画『イチケイのカラス』が2023年1月13日(金)公開決定! 自由奔放なクセ者裁判官・入間みちお役に竹野内豊、超ロジカルなエリート裁判官・坂間千鶴役に黒木華が続投。今...

 

 法によって統治する国を法治国家と言う。それに対して、法によらず、統治者とその集団が個人的な思惑によって恣意的に統治する国を人治国家と呼ぶ。
 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は典型的な人治国家で、独裁者の金一族が何でも決めてしまい、国民に強制する。金一族に対する尊敬をも強要することから、個人の内心の自由さえ認めない体制であることが分かる。
 アフガニスタンのタリバンのようにイスラム教原理主義によって統治する国も、人治国家のひとつだ。宗教とその戒律を強制する訳で、こちらにも内心の自由がない。
 
 強制するという意味では、法治国家も国民に法の遵守を強制する。しかしそれによって個人間に有利不利が生じたり、個人の内心の自由が損なわれたりしなければ、人治国家と区別することができる。それに法治国家には憲法がある。国会議員は違憲の立法はできないし、内閣は違憲の閣議決定はできないし、裁判官は憲法に反した判決を下すことはできない。憲法が統治者を制限するから法治国家なのだ。
 
 問題は、法に様々な解釈の違いがあることだ。民主主義の政治家は憲法を国民の利益や福祉のためになるように解釈するが、国家主義の政治家は憲法を自分の都合に合うように解釈する。違憲ではないと言い張って、国会で議決してしまえば、法律や施行規則や施行令は成立してしまう。法治主義の実質的な崩壊である。
 そうならないためには政治家の矜持に期待するしかないが、どういうわけか、矜持のない政治家ばかりが当選して多数派を占める。世界各国も似たりよったりで、多くの法治国家が人治国家に堕してしまっている状態が現在の世界のありようだ。選挙が正しく行われているのであれば、それが有権者の望みだと諦めるより他にない。
 
 日本においては、国会議員と最高裁裁判官が癒着していれば、違憲立法審査権が機能せず、どんな立法も合憲とされてしまう。最高裁裁判官の国民審査は形骸化していて、罷免された裁判官はひとりもいない。日本の政治を決めるのは、実際には選挙だけだ。憲法を無視する政治家が多数を占めれば、行政も立法も司法も牛耳られて、憲法が権力者を統治できなくなる。法治主義の完全な崩壊である。日本はすでにそうなっている。
 
 本作品を観て沖縄の現状を想起した人もいると思う。米軍基地が存在することは、平和主義の観点からも、独立国としての立場からも、海兵隊の暴力にさらされる住民の立場からも、いずれも反対だ。しかし経済面で米軍基地に依存している部分は多くある。だから選挙では辺野古移設賛成派が勝ったり反対派が勝ったりする。沖縄県民の心は揺れているのだ。もし沖縄県が一枚岩で辺野古移設反対だったら、菅義偉官房長官の「粛々と工事を進める」と木で鼻をくくったような答弁など出来なかった筈である。
 
 日本全体を覆う闇に対して、ひとりの裁判官に何が出来るのか。それが本作品の主たるテーマである。ちなみに防衛大臣の秘書官らしき中年男が「一介の裁判官が・・・」と言いかけるが、大臣がその発言を遮る。「一介の」は謙遜するときに使う言葉で、上から圧力をかけるときに使うのは品位に欠ける。「お前みたいな取るに足らない裁判官ふぜいが・・・」と言っているのと同じで、頭の悪いヤクザの親分レベルだ。このシーンは防衛大臣の頭脳明晰さを表現するシーンと言っていいだろう。
 
 沖縄の米軍基地は、日本の補助金で運営されている。「思いやり予算」というやつだ。補助金は国民の税金だから、米軍関連で生活している人は、日本の税金で生活しているに等しい。この構図からすると、米軍に出て行ってもらって、沖縄は沖縄県民の力で守っていく方向性が正しいように思える。それは沖縄県民だけの問題ではない。
 
 竹野内豊が演じた入間みちおの主張は明快である。法の主眼は人権を守ることにある。人の命や健康を犠牲にした上で成り立つような社会は、あってはならないのだ。それが法の精神だ。入間みちおの言葉は、駐留米軍がもたらす被害や、未だに解決されない福島原発事故、そしてこれから起きるかもしれない原発事故のすべてに向かって発せられていると言える。人権を犠牲にした社会でいいのかどうか、国民全員に向かって、覚悟を決めなさい、と言っているのだ。