映画「そして僕は途方に暮れる」を観た。
「生まれてきてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
アベシンゾーのような自己愛性パーソナリティ障害でもない限り、家族や親類や世間様に対して、多少はそんなふうな申し訳ない気持ちになることがある。
主人公菅原裕一の周囲の人々は、社会のパラダイムの代表だ。浮気はいけない、人には感謝しなければならない、定住して定職に就かなければならない、親孝行しなければならない。そんなパラダイムが支配的な社会は、テキトーでいい加減な裕一にとって不自由な社会である。かといって、トヨエツの演じた父親のように、何に対しても、誰に対しても、一切責任を取らず逃げ回るのは生きづらい。夏目漱石が「草枕」の冒頭に書いた通りである。
だから裕一が手に入れた手段は、すべてを曖昧にしてしまうことだ。人と向き合って話をしない。何か言われたら、ちゃんと返事をせずに中途半端な笑顔と呟くような「おぉ・・」という返事で済ませる。将来のことなど考えない。明日死んでもいい。なんとか一生を曖昧なままに逃げ切りたい。
しかしいざそうやって逃げ切ろうとしている父親を見ると、これでは駄目だと思ってしまう。人間は社会から逃げたいと同時に、社会と関わらないと生きていけない。多くの人の悩みがそこにある。鬱病になる原因も殆どが人間関係だ。無人島に鬱病はない。
戦前にはお国のために死ぬというパラダイムがあったが、いまではそんな人権無視のパラダイムは完全に否定されている。浮気はだめだとか、親孝行しなければならないとかいうパラダイムもそのうち時代遅れになるだろう。定職につかなければならないというパラダイムは、そもそも企業が非正規雇用をさらに増やそうとしている現在の日本では、なかなか難しい話だ。
パラダイムを簡単には信じることができないのは、裕一が馬鹿ではないという証拠である。パラダイムは簡単に変わったりなくなったりするものだ。そんなものにすがって、自分は大丈夫だと考えている世間の人々の方に無理がある。
裕一に明日はない。しかし自由はある。明日と引き換えに自由を投げ出す方がよほど勇気のない生き方ではないのか。明日のパン、明日の住居、明日の衣服のために今日の自由を投げ出すのは、奴隷の生き方ではないのか。
そんな主張は誰にも響かないかもしれない。しかし、自分たちの現在の状況が必ずしも盤石ではないということはみんな知っている。明日の不安に苛まれつつも、自由気儘に今日を過ごし、いつか野垂れ死ぬであろう裕一の生き方は、必ずしも否定されなくていい。