映画「グッドバイ、バッドマガジンズ」を観た。
人間の食事は文明が進むほど、単なる栄養補給ではなくなっている。料理は食べやすくしたり消化しやすくするという目的をはるか後方に置き去りにして、美食や栄養食といった文化を形成するようになった。本屋を覗くと、食材の本、料理の本がたくさんある。しかし元はと言えば人間の本能である食欲が、随分と出世したものだ。
ところが、同じように本能である性欲は、食欲のようにストレートに表現されることはない。映画や文学で性表現を見かけることは時折ある。アパレルで表現される「フェミニン」「コケティッシュ」「マニッシュ」「セクシー」などは、性欲の婉曲な表現だと理解している。性欲に訴えることが商売につながることは、食欲の場合と同じだ。しかし表現はあくまで間接的である。
ただ、性欲がストレートに表現される場もある。ポルノ映画やエロ漫画、エロ雑誌だ。レストランの料理を紹介するみたいに、モデルや道具や店が紹介される。しかし大っぴらにはできない。電車の中で料理本を読んでも問題ないが、エロ雑誌を開いていると、変な注目を浴びる。場合によっては訴えられるかもしれない。猥褻という概念のせいだ。日の当たる場所にいる食欲に対して、性欲は日蔭者である。コソコソと隠れながら情報を交換するしかない。
食の好みが人それぞれであるのと同じように、性の好みも人それぞれである。あまり食に興味がない人がいるように、性に興味のない人もいる。もちろん逆の人もいる。性衝動は多かれ少なかれ、人間が本来的に持っているもので、フロイトはそれをリビドーと呼び、あらゆるエネルギーの素になると主張した。しかしフェティシズムは人によって異なる。
食欲と性欲の決定的な違いは、食欲が物が対象であるのに対して、性欲が人を対象にしているところだ。普段は他人に見せることのない生殖器を使うことだけではない。キスをしたり手を繋いだりすることも、性欲の発露である。ある意味で自分の一部分を他人に委ねるわけだから、多少なりとも信頼関係が必要だ。仕事として出演するAVでも、相手が自分を傷つけたりしないと信じていなければ絡みはできない。
エロとは何なのか。作品全体を通して問われ続けるテーマだが、はっきりとした答えは示されない。しかし状況は説明される。東京五輪の開催に向けて、コンビニからエロ雑誌が駆逐される。それを紹介するのは日本語の得意な外国人のAV女優だ。エロ雑誌が未だに置かれている個人店のコンビニでは、高齢の男性が毎月のように買っていく。
殆どの人が興味を持ち、チャレンジしたいと思いながら、知識が不足していたりコンプレックスがあったりで尻込みしてしまうもの、しかし恋愛の涯には必ず行き着くもの、それがセックスであり、エロである。エロはエロス。人間の人間に対する性欲のことだ。対象は必ずしも他人とは限らない。性欲の対象が自分自身に向かう人もいるだろうし、老若男女の多くが他人の性欲の対象となるだろう。
猥褻という言葉でエロ雑誌が迫害される世の中は、不自由な世の中だ。エロはもっと自由でいい。LGBTの解放は、エロの解放である。いつか町の食堂で食事をするように、気の合った人同士が気楽にセックスを楽しむような社会が到来する時代が来るかもしれないが、現状ではその日は遠い先の未来だ。様々なエロが自由に認められるには、食の安全と同じくらい、性の安全が前提となる。セックスで身体が傷ついたり、望まない妊娠をしたりするのでは、自由なエロは成り立たない。人類のエロはまだまだ進化途中なのだ。