映画「バビロン」を観た。
アメリカ映画の草創期の中心地は、もちろんニューヨークだった。そこでは、映画で儲けることができると知った人々の間から、弱小の興行主たちが誕生した。しかし特許を独占するエジソン一派に迫害されていた。裁判だけではなく、マフィア顔負けの暴力沙汰も辞さなかったらしい。その不自由さは古代バビロニアの首都のようであった。
そこで興行主たちは新天地を求めて、未開の荒野だったハリウッド(柊の林)に映画スタジオを林立させる。しかしそこもニューヨークと同じように、弱肉強食の城壁都市となる。第二のバビロンの誕生だ。
本作品は、映画狂想曲そのものである。組織と人間の栄枯盛衰が交差する、ハリウッドという人間エネルギーの坩堝のような場所に集った人々の、凄まじいドラマが繰り広げられる。多少大げさすぎたり、極端過ぎる結末に至る部分もあったが、全体として、ずっしりくる見応えがあった。
ブラッド・ピットが演じた中年俳優のジャック・コンラッドの心境の変化が、そのままハリウッドの変化の歴史となっている。自信満々でやたらに女性に惚れてしまうという愛すべきキャラクターだが、足元が崩れてしまい、人生を喪失してしまう。
マーゴット・ロビーのネリー・ラロイも同じように、ハリウッドらしいシンデレラ・ストーリーに乗っかりながら、社交界のわざとらしい振舞いが鼻持ちならずに身上を持ち崩してしまう。
彼らの物語は悲劇ではない。むしろ喜劇だと思う。才能とは厄介なもので、世に出たときは自分らしく存分に発揮できたのに、世間は寄ってたかって枠をはめて、才能の芽を抑え込んでしまう。自由に生きようとすれば潰され、利に聡く生きれば才能を見失う。
本人たちにとっては人生を左右する重大な局面でも、傍から見る分には悲喜劇だ。有象無象が集合と離散を繰り返し、花が咲いたかと思えば、次の瞬間には踏みつけられる。称賛したり嘲笑したり、忙しいことこの上ない。まさに狂想曲である。
パーティのシーンはカオスだが、よく見れば細部にたくさんの工夫が施されている。映画館の大画面で観るのがいい。過去と現在の映画人に対する尊敬があり、映画そのものへの愛情もある。映画に関わるすべての人々に対する感謝のようなものもあり、映画好きとしては悪い気はしない。