三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「動物界」

2024年11月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「動物界」を観た。
映画『動物界』公式サイト|11月8日(金)公開

映画『動物界』公式サイト|11月8日(金)公開

セザール賞最多12部門ノミネート!この世界では、人は、動物になる。観る者の常識を覆すアニマライズ・スリラー、解禁。

 設定も、世界観も面白い。演出や脚本も見事である。

 中島敦の小説「山月記」を思い出した。性格の狷介な男が、人間社会と相容れないでいるうちに、虎になってしまうというファンタジーである。虎になって、体中に力が漲っているのを感じながら、地面を蹴って走るときの描写が、とても印象的な作品で、映画「ザ・フライ」でも、同じように体に力が漲るシーンがあった。そのときも「山月記」を思い出した。
 本作品の動物は、徐々に遺伝子が変化していくようで、とてもリアルである。それと並行するように、人間としての記憶や能力は、少しずつ失われていく。「山月記」にも同じような記述があり、最初は、どうして虎になってしまったのかと考えていたのに、最近は気がつくと、どうして以前は人間だったのだろうと考えている、恐ろしいことだと、主人公に言わせている。

 本作品は、人間のアイデンティティの問題に留まらないようだ。動物になってしまったものたちとの共生を図るノルウェーの政策がさり気なく紹介されるが、本作品には、地球の環境が人間だけが住みやすいようになってしまっていることを、動物の視点から鋭く指摘しているようなシーンがある。
 虚栄心の充足や快適さを求めるあまり、地球環境を都合よく作り変える。人間は自ら作り変えた環境に縛られて、精神的に不自由になってしまった。一見、良識があるように見えるフランソワも、家族という束縛や独善に縛り付けられて、息子エミールの変化に対して場当たり的で保守的な対応をしてしまう。

 自分が動物になってしまったら、どう感じるだろうかと、ずっと考えながらの鑑賞となった。人間の能力が失われていくということは、余計な想像や被害妄想がなくなり、不安や恐怖から解放されることかもしれない。明日死ぬかもしれないと考えることなしに、今日の食料を求めて生きるのは、少なくとも不幸ではない。人間と関わらなければ、動物に個性はない。アイデンティティの危機もなく、自尊心が傷つくこともない。野生として力強く生きていくことは、それだけで生の充実がある。「生きろ、エミール」と呼びかけたフランソワの声は、幸せの予感に満ちていた。

 息子エミールの変化する様子が、非常にダイナミックだ。論理的な思考に優れた頭のいい少年が、自分に起きた変化や、同じ状態の他人に対して、どのように対応し、関わっていくのか。最初の戸惑いや困惑が、受容と肯定に少しずつ変化していく有り様が手に取るように分かる。ポール・キルシェは、とても上手い。2022年製作の映画「Winter Boy」での、繊細な弟リュカの名演を思い出した。

 警察の曹長ジュリアを演じたのは2013年製作の映画「アデル、ブルーは熱い色」でアデルを演じたアデル・エグザルコプロスである。思春期の揺れ動く少女を儚げに演じていたのが印象に残っている。あれから10年。30歳になって、落ち着きとニュートラルな精神性を具えた女性を演じられるようになったのかと、個人的にちょっとした感慨があった。

映画「ルート29」

2024年11月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ルート29」を観た。
映画『ルート29』公式サイト|11月8日(FRI)全国公開

映画『ルート29』公式サイト|11月8日(FRI)全国公開

大丈夫。きっとふたりなら。 この旅は、わたしたちの未来へと続いていく 綾瀬はるか 大沢一菜 監督・脚本:森井勇佑 11月8日(FRI)全国公開

映画『ルート29』公式サイト|11月8日(FRI)全国公開

 突然ですが、問題です。「ありがとう」の反対の言葉は何でしょうか。
 次の問題です。「愛」の反対の言葉は何でしょうか。

 河井青葉が演じる姉が「あなたは本当に冷たい人」と、妹のり子に向かって本音をぶつけるシーンがあった。中島みゆきの「かなしみ笑い」の歌詞に「恨んでいられるうちはいいわ、忘れられたら生きてはゆけない」という一節がある。トルーマン・カポーティの「冷血」(「In Cold Blood」)の犯人は、自分が殺した相手に関して、少しも興味を示さなかった。
 つまり「愛」の反対は「憎悪」ではなく「無関心」なのだ。

「ありがとう」の反対語については、哲学の講義や接客業の研修などで学んでいる人も多いと思うが、結論から言うと「当たり前」である。「ありがとう」は「有り難い」に丁寧の接尾語「ございます」が付いた形の「ありがとうございます」の「ございます」が省略されてフランクな言い方になったのが残った形だ。「有り難い」の対義語「有りやすい」つまり「当たり前」が「ありがとう」の対義語という訳である。

 主人公のり子の心が、国道29号線を北上するルートの中で、無関心から関心へ向けて少しずつ動いていくのがわかる。これまでののり子は、自分以外の誰にも関心を示さなかったし、社会的な礼儀として必要な場合にだけ、感謝の言葉を述べていたと思う。ところが、あまり美味しくない魚をくれた父と息子には、みずから進んで感謝の言葉を述べる。

 本作品を、自閉症気味の人間の特殊な事例だと仮定するのは早計だ。人は多かれ少なかれ、他人に対して心を閉ざしている。上映中の映画ではないが「本心」は心の奥にしまったままだ。しかし他人の「本心」を感じたり、自分の「本心」が理解されたと感じるときがある。それを「ふれあい」と呼ぶ。

 本作品は「ふれあい」の映画である。心を閉ざしたのり子がハルとのふれあいを通じて次第に心を開いていく様子を、綾瀬はるかは上手に演じきった。表情や仕種の端々から、のり子が本来は情緒豊かな人であることが分かる。でなければフクロウと会話したり、屍体と一緒に歩いたりできない。
 言葉狩りの世の中である。それは「本心」を隠して、形式に頼って身を守る社会だ。人はどんどん真実や「本心」から遠ざかる。人生を失っているのと同じである。心を閉ざしているのはのり子ではなく、社会そのもの、つまり我々なのだ。

映画「本心」

2024年11月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「本心」を観た。
HOME | Happinet Phantom Studios

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 大江健三郎が「本当のことを言おうか」というテーマについて、エッセイの中で書いていたのを読んだことがある。読んだ当時は「本当のこと」を人に話すことがとても恐ろしいことのように感じられて、人は「本当のこと」を言わずに一生を終えるのではないか、そういう人が殆んどなのではないかと思った。
 いまでも、その考えはあまり変わらない。「本当のこと」は、本作品のタイトルである「本心」と言い換えることができる。人は誰でも心に闇を抱えていて、大抵の場合「本心」は闇の部分が多くを占める。
 人は死ぬものだと理解したときから、誰かの死を願うことができるようになる。はっきりと個人を特定できるほど自覚している願望であったり、誰かとは限らないが漠然と、生きていてほしくない人たちを意識したりする。あるいはその両方か。
 他人の死を心の奥底で願っているだけなら、何の問題もない。内心の自由は憲法で保障されている。しかし言葉に出すと、常識や良識を疑われる。何らかの殺意の持ち主だと思われたら、付き合い方も変えられるだろう。人は社会で上手く生きていくために「本心」を何重にも包んで、誰にも見せないようになる。

 本作品は「本心」をいろいろな仕掛けで吐露させようとしているところが面白い。まずリアルアバターには感心した。高性能のカメラと集音マイクが、離れた場所にいる依頼者に疑似体験をもたらす。Google EarthやGoogle Street View を駆使すると、行ったことのない場所に詳しくなることがある。あれと同じだ。
 見るだけではなく、何らかのアクションを起こせるとなると、心の奥にしまっていた「本心」が発露することになる。離れた場所にいる自分を安全圏にいると誤認してしまい、本当にやりたかった行動への衝動が止められなくなるのだ。ネットに何でも書き込む連中と同じである。リアルアバターが、いま流行りのアルバイト強盗みたいな存在に堕ちてしまうのは時間の問題だ。観客の誰もがそう思ったと思う。
 もうひとつの仕掛けがバーチャル・フィギュア(VF)で、画像やテキストとして残っているデータをAIに学習させることで、故人を映像と音声で復活させる。生前聞けなかった「本心」を話してほしいと願うが、AIが学習した故人は「本心」を話したがらない。そんなに都合よくはいかないのである。そういったもどかしさも、本作品の面白さのひとつだと思う。
 ラスト近くの主人公のモノローグでさっと流されてしまうが、リアルアバターを雇っていたのがAIだったという知らせは、ネットワークAIに支配された未来を描いた「ターミネーター」を彷彿させる。人格とは何かというテーマとともに、人間の幸福はどこに残っているのかと、ある種の寂寥感が漂う。

 大江健三郎の文章全体は忘れてしまったが、作家というのは登場人物に「本当のこと」を言わせるために物語を編み、遠回しの表現をしたり、行間に語らせたりするものだ、というふうなことを書いていたと思う。「本当のこと」は、言わないことそのものも含めて「本当のこと」なのだ。

映画「ネネ エトワールに憧れて」

2024年11月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ネネ エトワールに憧れて」を観た。
映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

11月8日公開。世界三大バレエ団の一つ、パリ・オペラ座の最高位“エトワール”を目指す少女の物語。

映画「ネネ -エトワールに憧れて-」公式

 一時期人気のあった「集団行動」というパフォーマンスがある。個性を捨てさせて、歩くマシンと化すまで訓練された姿を見せるものだ。殆んど軍隊である。人格や人間性まで放棄させられているみたいで、見ていてとても気持ち悪かった。しかしそれを気持ちがいいと感じる人たちがいることは確かで、本人が気がついていない場合もあるが、それは戦争が好きな精神性の持ち主である。だから気持ち悪いのだ。
「集団行動」とバレエを同一視することはできないが、根底の精神構造は同じだと思う。言ってみれば、没個性と画一性の美学だ。バレリーナに自己抑制を徹底させて、身長や体重、各サイズの維持まで要求し、踊りの技術を極限まで訓練して、踊る機械にする。機械に個性はいらない。そこまでしてバレリーナに得られるものは、何だろう。高収入と名声かもしれないが、それは極く一部の人に限られる。

 本作品は、主人公ネネが黒人であることの不利をはねのけて、スター(エトワール=星)になることができるかの物語だが、ネネがバレエ学校に入りたい動機は、権威がある学校だからであり、講師や卒業生に有名人がたくさんいるからである。ミーハーな動機が悪いとは言わないが、世の中の価値観に精神が蹂躙されている気もする。
 パラダイムの中心には、ヒトもカネもモノも集まる。そこに辿り着きたい希望がある一方、そこから排除される人々への無関心がある。ネネは希望と無関心の両方の対象となって、12歳の心は引き裂かれそうになる。
 父親は自分の希望を叶えたいネネを応援し、母親と校長は、排除の対象になってしまうことを恐れて、ネネの希望に反対する。ネネももう少し大人になれば、状況を俯瞰して自分を客観視できるようになり、少しは気持ちも楽になるのだろうが、いまは苦しいばかりだ。

 フランスは移民を受け入れて、そのために税金が使われて、みんなが少しずつ貧しくなっている。移民に怒りの矛先が向かうのを防ぐことはできない。ネネのように見た目ですぐに分かる人種は、差別の対象から免れ難い。社会の歪みを12歳のネネが一身に受けている訳で、本作品のテーマはそのあたりにあると思う。

映画「十一人の賊軍」

2024年11月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「十一人の賊軍」を観た。

 映画の中には「砦モノ」とでも言うべきジャンルがある。日本の時代劇やアメリカの西部劇でよく見かけたシチュエーションだ。NFLの試合みたいでわかりやすいし、戦略と戦術を楽しむことができる。
 本作品もメインはそこだろうと思うが、この映画には、既存の作品にはない、物語のベースとなっているものがある。それは怒りのトーンだ。それも単調な怒りではなく、登場人物それぞれの怒り、それに登場していない人々の怒りがある。

 共同体はその存続のために、価値を創造する。多くの場合、それは権威となり、権力を伴って権力者の地盤を強化する。支配関係はヒエラルキーとなり、世襲となって、格差を固定する。固定するための価値観が「家」である。
 本作品の時代、明治維新へ向かう倒幕運動において「家」は正と負の両方のベクトルとなっている。官軍に与するのか、同盟に協力するのか、いずれも「家」が単位となっている。当然ながら、家老の責務はとてつもなく重い。官軍と同盟軍。双方の間で上手に立ち回り、被害を最小限にしなければならない。
 一方、庶民にとっては「家」などという価値観は、最初から無縁だし、藩がどうなろうと武士が死のうと知ったこっちゃない。自分たちが満足に生活できさえすれば、それでいい。そもそも武士のヒエラルキーを押し付けられるなんて、まっぴらだ。偉そうにされたり、理不尽な仕打ちをされるのも我慢がならない。
 武士たちは、壊れゆく価値観に縋りながらも、この状況に怒りを覚え、庶民は、未だに格差を押し付けてこようとする連中に怒りを覚える。両者に共通しているのが、自分の預かり知らぬところで勝手に国を動かそうとしている、見えない力に対する怒りだ。海の外から日本を操ろうとしていた列強国家の存在もあっただろうが、納得できる理由もないままに、暴力に唯々諾々と従ってしまう自分たち自身への怒りもあっただろう。時代そのものに対する怒りと言ってもいい。

 スクリーンが怒りの色で染まっているような作品だが、戦いの中でも、ちゃんと人間ドラマが描かれる。俳優陣は揃って好演。特に、達者な人たちに混じって、砦の紅一点を演じた鞘師里保が素晴らしい。今後の活躍も期待したい。

映画「スマホを落としただけなのに 最終章  ファイナル ハッキング ゲーム」

2024年11月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スマホを落としただけなのに 最終章  ファイナル ハッキング ゲーム」を観た。
映画『スマホを落としただけなのに ~最終章~ ファイナル ハッキング ゲーム』

映画『スマホを落としただけなのに ~最終章~ ファイナル ハッキング ゲーム』

社会現象を巻き起こした大ヒットSNSミステリーシリーズ、ついに最終章― 11月1日(金)公開!

映画『スマホを落としただけなのに ~最終章~ ファイナル ハッキング ゲーム』

 本作品の二日前に黒木華主演の映画「アイミタガイ」を観たせいか、本作品に登場する千葉雄大の加賀谷と成田凌の浦野、それに韓国人のスミンまで、相身互いの関係性みたいに思えてしまった。
 それはある意味で間違ってはいないのだが、犯罪者と彼を管理する側、捕まえようとする側という立場の違いで、一筋縄ではいかない関係になる。逆に言えば、相身互いは、互いの立場を超越した心境なのだろう。浦野が加賀谷を友だちと呼んだ理由がそこにあると思う。

 ただ本作品は、登場人物の情緒に重きを置いてしまったために、肝心のハッキングが疎かになってしまった憾みがある。要塞のように監視カメラだらけだった極右のアジトなのに、浦野の作業部屋だけ監視カメラが付いていなかったり、ドローンのカメラは使うのに、ハッキングした内調のPCカメラは使わないとか、前2作で強調されたネット社会の恐怖が、今回は甚だしく弱い。それに金融機関の送金は、現在では一瞬で完了するし、不可逆だ。

 シリーズ物をこれまで観てきた経験から言うと、大抵の場合、第一作が一番面白い。それはそうだろう。面白いから続編が作られたのだ。そして大抵の場合、続編はオリジナルを超えられない。本作品も例外ではなく、日常的なシーンから、ネットの深淵と恐怖が覗かれる第一作が一番面白かった。柳の下に、ドジョウは二匹いないのだ。

映画「ゴンドラ」

2024年11月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ゴンドラ」を観た。
映画『ゴンドラ』

映画『ゴンドラ』

<セリフなし映画>の名匠ファイト・ヘルマー待望の最新作。山の谷間の古い2つのゴンドラが、世界をすこし幸福にする物語。11月1日(金)新宿シネマカリテ、アップリンク吉...

 いろいろな意味で象徴的な作品だと思う。
 ゴンドラの乗務員は労働者の代表で、高圧的な駅長は、資本家の代表だろう。サボタージュとストライキ、駅長による横恋慕、差別される身障者、無賃乗車しようとする老婆など、搾取と差別と利己主義が、何度も往復するゴンドラの周囲で象徴的に描かれる。
 そんな中で、乗務員の女性が繰り広げる遊びや芸術的な活動が、人間の自由として楽しく披露される。信頼と優しさ、思いやりは、非情な状況の対比だろう。時間の経過とともに人が移り変わり、子供たちが未来を担う。
 昼と夜。身障者の復権は、たくさんの人々が彼を応援し、デートの夜は、たくさんの人々が女性ふたりの愛を支える。
 現代社会の悲惨さと希望が同居しているような印象の作品で、あっという間の85分だった。唯一のセリフは「OK」である。ひとつのセリフで全人類を肯定している気がした。

映画「アイミタガイ」

2024年11月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイミタガイ」を観た。
映画『アイミタガイ』オフィシャルサイト

映画『アイミタガイ』オフィシャルサイト

なぜ彼女は、亡くなった親友にメッセージを送り続けたのか?/黒木華 中村蒼 藤間爽子 安藤玉恵 近藤華 白鳥玉季 吉岡睦雄 / 松本利夫(EXILE) 升毅 / 西田尚美 ...

映画『アイミタガイ』オフィシャルサイト

 エンドロールで流れる主題歌を歌う黒木華の歌声は、一生懸命さがひしひしと伝わってくる。生真面目で努力家らしい彼女の精一杯の歌は、女優の歌らしい野太さと優しさを備え持つ。本作品は、歌でも演技でも、黒木華のポテンシャルが存分に発揮された印象的な作品である。楽しかったし、女優が歌う時代がまた来ればいいと願ったりもした。

 本作品はディテールが脳のシナプスのように繋がって、ひとつの球みたいな構造を持っている。ちょっと纏まりすぎているところはあるが、それよりも、バラバラのシーンがひと繋がりになる気持ちよさがある。

「相身互い」という言葉は、互いに相手のことを思うという面では「同病相憐れむ」に雰囲気が似ているが、同情し合うわけではない。それよりも「情けは人のためならず」に似ていると思う。
「情けは人のためならず」は、その意味が誤解されている代表的な諺として、テレビや新聞で話のタネに出てくることがある。他人に情けをかけるのは、そのひとを甘やかすことになるからよくないという解釈が誤解で、他人に親切にするのは巡り巡って自分に戻ってくるという解釈が正解だという内容である。
 しかし当方は、この解釈もおかしいと思っている。自分に何らかの益が戻ってくることを期待して、人に親切にするというのは、いかにも不自然だ。この世では、経済をはじめとして、人と人とが複雑に繋がっていて、誰かが誰かのために働いている。誰かの努力は、必ず誰かのためになる訳だ。だから人を助けることは、その人から益を得ている多くの人を助けることになる。ひいては社会全体のためになるという解釈のほうが「情けは人のためならず」の意味として正しい気がする。
「相身互い」は、さらに一歩進んで、物理的な益というよりも、互いの境遇を理解して思いやるという精神的な益にまで、関係性が深まっている言葉だと思う。現代人が使わなくなった言葉のひとつだ。翻って、現代社会の格差と分断の証左だと言えるだろう。拝金主義の世の中だ。相身互いの精神は廃れて当然である。

 いつか人類が絶滅の時を迎えようとしたときに「人類は相身互い」とか「人間は相身互い」という言葉が復活するかもしれない。そのときには、もっと早く「相身互い」の精神性を獲得すべきだったという痛恨の反省があるに違いない。

 ほのぼのとしたいい作品だが、いまだけ、カネだけ、自分だけという刹那主義の亡者たちが席巻するこの世の中に、警鐘を鳴らされているようで、思わず目眩を覚えてしまった。