古代より磐梯山をおろがみし会津の民はありがたきかな
元旦は子や孫戻り活気づく遠つ祖も連なりており
八重桜会津烈婦は凛として国に殉ずる一輪の花
起き上がり小法師求め若松の十日市には来てくなんしょ
父母(ちちはは)や祖父母の会津かのときの滅びし悲劇また襲いくる
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古代より磐梯山をおろがみし会津の民はありがたきかな
元旦は子や孫戻り活気づく遠つ祖も連なりており
八重桜会津烈婦は凛として国に殉ずる一輪の花
起き上がり小法師求め若松の十日市には来てくなんしょ
父母(ちちはは)や祖父母の会津かのときの滅びし悲劇また襲いくる
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日本語を使うということは、私たち日本人にとって、どのような深い意味があるのか。小林秀雄の『本居宣長』を読んでいて、少しは理解できたような気がした。毎年、今の時期になると同じ本を手にとっても、常に新しい発見があるというのは、それだけ名著だということだろう。「母親から教へられた片言といふ種子から育った母國語の組織だけが、私達が重ねてきた過去の経験の、自分等に親しい意味合や味はひを、貯へて置いてくれるのである。私達は、安心して、過去の保存を、これに託し、過去が失はれず、現在のうちに生きかへるのを、期待してゐるわけだが、この安心や期待は、あまり大きく深いと言はうか、當り前過ぎると言はうか、安心しながら、期待しながら、さうとは気附かぬ程ののものである」。身体では感じ取っていながら、意識の上に描き出せないでいるのが、日本語であるというのだ。しかし、順境あっては表面化しなくても、逆境下にあっては「環境の抵抗を感ずるやうになつて、言霊にも己れを掴み直すといふ事が起る」と小林は書いている。それこそ、現在の日本は危機的状況下にあり、「言霊のさきはう國」「言霊のたすくる國」として、古から受け継がれてきた日本を再確認すべきなのである。日本人のなかに、言葉にはならない憤りが蔓延しているのも、日本人のなかに眠っている大和心がそうさせるのではなかろうか。
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