東北の冬は厳しい。視界に入るもの全てが荒涼たる雪景色ばかりであれば、その上をなぞることは、まったく意味をなさない。だからこそ、目が自分自身に目が向いてしまうのだ。大宰治が自虐的であったのは、東北人だったからだろう。得意気に胸をそらすのとは、まった無縁な者たちなのである。亀井勝一郎の『無頼派の祈り』よると、太宰は聖書を座右の書にしていたという。そして、「視よ找なんじを遣すは、羊を狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鳩のごとく素直になれ」との聖句に惹かれたことを取り上げて、亀井は「彼はこれを異教的に読み、背徳の指針とし、そして最大の敗北をイエスに見ようと欲したにちがいない。自分のデカダンスを、聖書によって完成しようとした、宗教的に云えば『不逞の徒である』」と論じたのである。自嘲的になるのは、東北の風土の育んだ気質のせいではなかろうか。会津弁で「きめっこ」という言葉がある。標準語では「すねる」というように理解されているが、本来の意味は「はにかみ」に近いのではないか。太宰も「きめっこ」の人であったようだ。しかし、自らを卑下したような言葉を口にするために、ついつい誤解されてしまうのである。亀井も「彼は正義を、笑みをもって、真理を、冗談をもって言うからふざけているように誤解される」と書いている。私が政治を評論するにあたって、ある種ためらいがあるのは、太宰的なものを背負っているからだろう。正論を吐くにあたっても、それを口にするだけの人間であるかどうか、それを気にかけるのが東北人なのである。
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