安岡章太郎が歩いているのを、私は目撃したことがある。それも会津若松市役所の目の前であった。そこにタバコ屋があったので、洋もくを購入していた。『流離譚』の取材のために、会津を訪れていたのだろう。どうしてタバコなのだろう。私は腑に落ちなかった。その安岡が去る26日に亡くなっていたことが、今日のニュースで伝えられた。『流離譚』をもう一度読み返してみたが、やっぱり気になったのは、慶応4年8月25日、父方である安岡覚之助が戦死した、会津若松市七日町涙橋周辺の情景描写だ。土佐勤王党の覚之助は天誅組に加わったために、長い間獄中にあったが、その後に板垣退助が率いる土佐軍の一員として、会津戊辰戦争に従軍した。「私は教えられた道を市街の西の七日町という方へ歩いて行った。と突然、街はずれたあたりで、荒涼とした景色が周囲にひろがっているのが見えた。もとは田んぼであったのだろうか。しかし、いま眼の前に見えるのは、ただ掃溜めのように汚れて疲れ切った湿地だった。覚之助は本当にこんなところで死んだのだろうか。私は文字通り絶句したまま、胸の中でむなしくそんな言葉をつぶやきかえした」。安岡ならずとも、あの場所に立てば、同じ感慨にひたるはずである。安岡は小説家らしく、自分の感性で確認したかったのではないか。だからこそ、タバコ屋に立ち寄ったのであり、涙橋周辺があまりにも殺風景なのに、悄然としてしまったのだろう。
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