三宅坂といえば日本社会党であり、それを受け継いだのが社会民主党であった。国会近くの三宅坂に社会文化会館が建っていたために、慣れ親しまれてきた。本拠地が老朽化を理由に取り壊されることになった。民主社会主義を選択しなかったことが、党の退潮を招いたのである。ソ連が崩壊する1991年の直前まで、日本社会党を牛耳っていた協会派は、ソ連型共産主義に固執していた。ドイツ社会民主党などは、1959年のゴーデスベルグ綱領によって、階級闘争を放棄した。日本社会党は何周も後れてしまったのである。階級なき社会を実現するはずだったソ連型共産主義が、収容所群島へと結びついたことは、今では誰もが知っている。ミッシェル・フーコーは「今日では監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても、何も不思議ではない」(『監獄の誕生』)と書いており、武藤光郎もフーコーのことを『例外者の社会思想』で触れている。それをそっくり権力の維持に利用したのが、ソ連型共産主義なのである。また、武藤はハンナ・アレントの「人間の心は人間の眼が入り込むことができない暗闇の場所である」(『革命について』)という言葉にも言及していた。いかなる公権力であろうとも、そこに介入してはならないのだ。社会民主党が政権を奪取できずに衰退する。それは日本にとって不幸なことなのだが、過去のイデオロギーを懐かしむようでは、フーコーやアレントを理解するのは無理だろう。
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