日本の現代史を考える上でも、日蓮の影響というのは無視できない。国家革新運動の思想家であった、北一輝、石原莞爾、田中智学の名前をすぐに思い浮かべることができる。法華経の教えを抜きにしては、彼らを語れないからだ。紀野一義が『法華経の探求』のなかで述べているように、その信仰を成り立たせしめているのは、まさしく「宇宙的な壮大さを持つ生命の讃歌」である。とくに、紀野はクマーラジーヴァ訳の法華経について「名訳の底には、無数の人々の祈りや願いや喜びや慟哭が深く沈んでいるかのようである。それは水底に沈んだ寺院の鐘にも似て、同じ祈りや願い、喜びや慟哭の裡にこの経典を読誦する者の胸に重く深く響くのである」と書いている。世の中の不正に立ち向かうにあたって、法華経が重要な役割を果たしたのは、一心不乱に信仰することが、日本的情念をたぎらせることになったからだろう。その意味からも、法華経を重んじる人たちへの批判は、これまで私は差し控えてきた。国を愛する心が人一倍であると、私なりに信じていたからである。創価学会を母体とする公明党の山口代表が、尖閣諸島に関して、棚上げするかのような発言をしたのには、裏切られた思いがした。中共は領空侵犯まで行って、軍事的挑発をエスカレートさせてきている。法華経の信者が満ち満ちているのは、我が日本ではないか。そこに攻め込まんとする敵に対して、どうして身構えないのだろう。後になって軌道修正したとしても、断じて許されざる暴論だ。
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