NHKの大河ドラマ「八重の桜」がスタートしたが、視聴率的には上々の滑り出しであったようだ。会津地方は調査機器が設置されている家庭がないために、実際のところはわからない。私の周囲の反応から総合して、70%を軽く超えたのではないかと思う。一回目は会津藩についての解説的な面が多く、大事なことはほぼ盛り込んであった。しかし、会津藩を佐幕派と決めつけていたのには、ガッカリした。そうした薩長史観によって、「朝敵」の汚名を着せられたのである。「家訓」にしても、そこに山崎闇斎が関与していたことは、一言も触れていなかった。闇斎は天皇絶対主義者であり、その人間を師として招聘したのが、藩祖保科正之であった。全国の藩のなかで、唯一会津藩だけが神道であったのも、闇斎の影響である。松永材は『白虎精神』のなかで、「正之は夙(つと)に仏教や老荘の書を遠ざけ、水戸の講道館記よりも180年以前に『神州を奉じて西土(儒学)を資す』の大信念に到達していた」と書いており、「朝敵」になるわけはないのである。寛永11年7月、将軍家光とともに、正之は上洛したが、そこで拝謁したのは、二人にとって姪にあたる明正天皇であった。家光の妹和子が後水尾天皇の女御として入内し、そこで生まれた興津内親王が即位したのだ。朝廷と幕府は密接に結びついていたのである。私は明治維新を成し遂げた者たちを批判するつもりはない。会津藩が権力闘争で敗れことは否定しようがないからだ。いつの世であろうとも、勝てば官軍なのである。
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