日本のマスコミは、かの石橋湛山をして、ファシズムに抵抗したリベラリストとして評価するが、それはあくまでも一面的でしかない。昭和21年春、石橋が衆議院選挙に立候補したのは、インフレ必至論に異議を唱えたかったからだ。何度も『東洋経済新報』において「戦後日本の経済で恐るべきは、むしろインフレではなく、生産が止まり、多量の失業者を発生するデフレ的傾向である。この際、インフレの懸念ありとて、緊縮財政を行うごときは、肺炎の患者をチフスと誤診し、まちがった治療法を施すに等しく、患者を殺す恐れがある」(『湛山回想』)と主張したのだ。これに対して、当時の経済学者は、圧倒的に反感を持つ者が多かったという。時の政府も石橋に与しなかった。当選したことで、石橋は第一次吉田内閣に大蔵大臣として加わり、そこで大胆な経済政策を行ったのだ。汽車を動かすにも、化学肥料を増産するためにも、石炭が欠かせなかった。窮余の一策として石橋は、大々的な融資を実施した。石橋自身が認めているように「それは、確かに一面において、インフレを促進したに違いない。しかし、その危険を冒さなければ、石炭の確保は出来ず、汽車もあるいは止まったかも知れない」のである。石橋は昭和31年12月14日、自民党総裁に選出され、12月23日には首相に就任している。翌年1月に病気で短命政権に終わったとはいえ、デフレを誰よりも嫌ったのである。安倍首相は第二の石橋湛山を目指すべきであり、当面は、金融緩和と公共投資に全力を傾けるべきだろう。
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