来年になれば戦後70年ということになる。ようやく日本が日本に復帰しつつあるのだ。日本人の戦後とは、過去の全否定から出発した。大東亜細戦争は一方的に日本が悪いとされ、全体主義国家のドイツやイタリアと同列視された。過去から学ぶことのない日本人に警告を発したのが村松剛であった。村松は『歴史に学ぶ』のなかで、未来を生きていく条件として「過去をいかにうまく学ぶかが、生きのびる条件となる」と書いた。それは敗戦から30年以上も経た昭和54年のことである。進歩派の主張は明白であった。自衛隊は嘲られ、税金泥棒とまで罵倒された。そうした教育を受けたのが団塊の世代であった。ようやく第一線は去りつつあるが、未だにその影響力から抜け出せないでいる。さらに、村松は日本の未来に対してペシミステックな言葉も残している。「憎悪の黒々としたフィルターを通じては、歴史の本当の姿は見えない。ということは明日を生きのびるみちも見えて来ない、ということである」。歴史とはすでに起こったことであり、既知の部類に属する。それをうまく学ぶには、そこで生きた日本人への共感がなくてはならない。全面的に同意することではなく、そうせざるを得なかった思いを汲み取りながら、一つの教訓とするのである。今の若い人たちはネットを通じて歴史を学んでいる。「憎悪の黒々としたフィルター」はもはや通用しないのである。