善照寺砦から街道に入ると小雨が降ってきて
「幸先よし! これで敵はますますわれらが敵か味方かわからず手を出しにくかろう」
ついに信長の軍1800が一斉に走り出した、僅か1800とはいえども信長と生死を共にしてきた若手精鋭の馬廻り衆と小姓衆だ、息がぴったりと合っている
信勝との戦、清州織田との戦いでも縦横無尽の活躍をしてきた
道はまっすぐな最短の一本道、それだけに敵の部隊と遭遇する確率は高くなる
だが勢いがあれば敵は茫然と見送るであろう、後の戦は徒士と足軽に任せて騎馬隊は本陣を突く、信長が天に祈った。
このほか先発したおとり部隊200が鎌倉街道を北から合流する、さらに義元本陣の背後には50の蜂須賀党と梁田党が潜んでいる
さらに千秋四郎率いる300の兵が目くらましの陽動作戦で大高城に向けて出陣した、この軍は間もなく松平信康軍と遭遇して全滅した。
信長の軍は小雨と薄い霧の中を走り抜け、敵陣の満々中をつぎつぎに抵抗も受けず突き進む
信長は馬を走らせながら力がみなぎってくるのを感じていた
(長尾景虎、お前が騎馬の先頭を走って敵陣に飛び込んでいく気持ちが今わかったぞ、まさに快なり!快なり!)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/e7/9f4b390c12cce88b5859d2713746f057.jpg)
敵はまさか信長が率いる織田軍などと知らず、味方のどの部隊か?などと茫然と見送った、
そのあとを追ってきた足軽部隊でようやく敵と気が付いて乱戦となったが、もはや時は遅かった
織田軍は今川軍の奥深くまで突入して本陣に切り込んでいた
今川義元も旗本も最初は騒々しい声や悲鳴がなんだかわからなかった、今川軍は休憩中で気が緩んでいたからたちまち切り伏せられた
前田利家の隊もすさまじい働きをしている
家臣が天幕に飛び込んできた「御所様、大変ですお逃げください、織田軍が迫っています」
「なに! 何事じゃ」
「織田の急襲でございます、そこまで迫っています、急いで輿にお乗りください」
「バカな! 織田だと、まことなのか」
だとすれば悠長に輿などに乗っていられない、義元は愛刀を抜いて身構えながら親衛隊と共に陣幕から裏手に飛び出した
しかし歩きなれぬ義元には草や木が茂る山道はどれだけも進まない、すぐに追いかけてきた織田方の武士に発見された
「やや! これは! 今川義元を見つけたぞ」
義元の前に今川の武士が数名たちはだかり切り合いになった、義元危うしと今川の兵が集まってきた
ところが草むらや木の上から、待ちに待っていた蜂須賀党と梁田党の新手が今川兵に襲い掛かってきたから、たちまち今川軍は混乱して切り伏せられた
今川義元は戦国武将らしく愛刀左文字を構えて防戦した、敵に手傷を負わせたのも一人や二人ではない
しかし、鎧も外していたため槍を受け、刀で切り裂かれて絶命した
打ち取ったのは馬廻りの服部小平太と毛利新介であった、首を取ったのは毛利である。
「今川義元を打ち取ったりー!」「今川義元が首とったりー!」
戦場に大声が響き渡ると織田勢は勢いづき、今川勢は数的有利でありながら、たちまち臆病風に吹かれて逃げ出した。
それは田楽狭間から桶狭間一帯にたちまち知れ渡り、無傷の今川部隊まで戦わずに沓掛城に向かって逃げ出す始末であった。
やがて敗報と悲報は大高城の鵜殿、松平、鳴海城の岡部、そして前線の葛山、朝比奈にも伝わった
葛山、朝比奈、鵜殿の諸将は清州と桶狭間の織田軍に挟撃される前に敗走を始めた、途中織田軍に遭遇して多数が打ち取られた
しかし織田軍にも兵数の限界があり追撃はここまでであった
今川勢は沓掛にたどり着いて、ようやく一息ついた。
最後まで大高城を守備していた松平元康の岡崎衆は翌日戦が鎮まった道を岡崎城に向かった。
また鳴海城の勇将岡部元信は1000名の兵で逃げずに城に籠城して織田軍を迎え打った。
織田軍は再三、鳴海城を攻めたが落城させることができない、そこで撤退の安全を保証して城開け渡しを求めると「主君の「みしるし」(首)を返してくれるならば城を渡す」と答えた
信長は「岡部、敵なれどあっぱれなる武者なり、治部大輔(じぶだゆう=義元の官位)が首級を丁重に返すように」と言って、開城と駿府への撤退を許した。
まだおまけがある、駿府に戻る途中、刈谷を通ると織田方の刈谷城主水野信近を先頭にして襲い掛かってきた、水野は落ち武者の一団と勘違いしたらしい
しかし岡部勢は慌てず、逆に水野信近を打ち取って刈谷城に火をかけて意気揚々と帰国した。
急を聞いて緒川城から兄、水野信元が手勢を率いてやってきたが、すでに岡部は消え去っていた。