松平元康は岡崎に戻る途中で残党狩りの織田軍の部隊に遭遇した
鉄砲を持つ兵も見える
大高城から何度も敵の中を切り抜けてきたが兵はちりじりになり、従う者僅か300、兵は疲れ果て、敗戦の落胆も大きく
元康は「潔く腹を切ろう、儂の首を渡してお前たちは岡崎に向かうがよい」と言った
重臣の酒井忠次が「馬鹿なことを申すものではない、われらのこれまでの苦心苦労を殿は何と心得る
今川侍に土下座し、水を飲み泥を舐めて主君が帰ることだけを楽しみに待っておりましたものを
御大将がかのように軟弱であれば、われら一同もここで枕を並べ腹かっ切りまするぞ、松平家もこれまでのことよ」
そう言われると元康も我に返り「すまぬ、儂が間違っていた、ここは息を合わせて切り抜けよう」と言った
みな覚悟を決めて身構えていると、織田方から武者が3人、何かを大声でわめきながら近ずいて来た
「何者じゃ」酒井が問うと 「松平殿と三河衆とお見受けする、刀を収められよ、話がある」
それで酒井忠次と本多忠勝が歩み出て、織田方の武者と立ち会った
「われは織田家家臣、佐々成政(さっさなりまさ)でござる、御屋形様は松平勢は必ずここを通るであろうから会って
松平様に伝言せよと申された、『岡崎城は今朝には皆逃げて今川勢は一人もおらず、われらもこれを接収するつもりはない、
空き城ゆえ元々の持ち主である三河衆が急ぎ入るべし』」と申され
さらに『われらの敵は今川であって、昔はともあれ今川の圧政に苦しんだ三河衆には何の憎しみもない、
義元が死んだ今はこれからの行く末をじっくり考えるが良い
松平殿が竹千代の頃、儂と古渡の城で三晩共に過ごしたことを覚えておいでか
またいつの日か語り合いたいものよ、
わが軍と出会っても岡崎帰城は妨げぬ故、安堵してゆかれるが良い』との申しつけでござる、
ゆえにわれらもこれにて尾張に戻る、さらばでござる」
二人は戻って元康にこれを告げると
「織田殿か覚えておるわ、怖いように見えて優しさも持ったお方じゃった
なんとも気が抜けてしもうた、
織田殿の心遣いに甘えて我らは岡崎に行くとしよう、追々散った兵も岡崎に集まるよう道々伝えておくように」
そして松平元康は人質になって以来、15年近くかかって岡崎城の主として戻ってきたのであった
家臣はもちろん、三河の百姓から町人まで喜び感涙にむせた。
「これからが思案の分かれ道じゃ、いずれにせよ今川か織田かいずれに味方せねば生き抜くことは難しい」
それから軍の整備に月日を重ねて、今川方の空城や小城を攻め取っていった
それは織田に味方することを決意したからであった、半年の後、松平元康と織田信長は織田のものになった沓掛城で会談して同盟の誓詞を交わした
今川氏真はこれを聞いて怒り狂ったが攻め寄せるだけの気力はなかった。
三河は松平家に帰属した、元康は今川義元の偏諱(へんき)を返上して松平家康と名を改めた。
開けて永禄4年(1561)は、織田家でめでたきことが続いた
これは政略結婚であるけれど、織田信長の妹、美貌の人と名高い市姫が美濃の西に接する近江(滋賀県)の北半分を領する浅井賢政(かたまさ)に嫁いだ
これで南近江の六角と美濃の斎藤をけん制できるようになった。
その斎藤家では父、道三を殺した斎藤義龍が急死して、息子の竜興が後を継いだが評判が悪い。
それはさておいて浅井家を少し語る
浅井氏は近江の平凡な一豪族から長政の祖父が小谷城を築き、近江の守護であった京極氏を戦で破って独立した
その後、
父、久政は平凡な人だったので祖父が勝ち取った独立を失って六角の家臣になった
子の賢政は賢く戦上手で六角から独立を願って兵を起こし、大軍の六角氏を破って、琵琶湖の北部全域を所領にした
織田信長と利害が一致して信長の妹市姫を娶った、六角からもらった賢政の名を捨て、信長の長をもらって、浅井長政とした、市が15、長政が18と言う
3人の娘が生まれ、長女は後の豊臣秀吉の愛妾「淀」となり、末娘「江」は徳川2代将軍徳川秀忠の本妻となる。