信長と同盟した松平家康は三河領内にある今川の城をすべて落して三河を平定した。
朝廷への献金など工作もつつがなく行ったので「従五位下三河守」を拝領した
そして松平の姓を徳川に改めて「徳川三河守家康」と名乗った。
徳川は先祖の地、上野(群馬県)「得河郷」から取ったと言われている。
但し「徳川」は嫡流のみで親類は松平のままである。江戸時代に幕府を開いたが徳川姓は将軍家と御三家のみが名乗り、それ以外の一門は松平のままである。
徳川家康は武田信玄より22歳、上杉政虎より13歳、織田信長より9歳、秀吉より6歳、年下である。
先祖代々三河(愛知県東部)を治め、家康が9代と言われる
祖父清康は強かったがお家騒動の末、家臣に殺され、父、広忠の頃は今川と織田に挟まれて苦労した
結局、今川方になり織田と戦ったが、清康同様に家臣に殺された
まだ幼い竹千代(家康)は今川の人質となり、その代わりに松平家は今川のバックアップを受けた、だが実態は今川軍の先兵で消耗されるばかりだった
その後のことは、この小説の経緯通りである。
一方、今川家は氏真になってからというもの斜陽化の一途であった
土豪たちは離れ、井伊谷の井伊家も徳川になびいた
徳川家康もいよいよ弱まった遠江進行の準備を始めている、そして弱肉強食、武田信玄も今川との同盟を破棄して駿河に攻め込もうと準備を始めた
信玄にとって駿河を奪うことは海を得ることである、海なし国の甲斐の念願が叶う状況になってきた。
武田信玄から徳川家康に内々の使者がやってきた、密書には「今川領を東西から攻めて武田と徳川で二分しようではないか」という提案であった。
「おっかあ」
家を出てすでに何年たっただろうか、秀吉は29歳になった
20年ぶりか? その秀吉が中村の家に三蔵をつれて帰ってきた、供のものには背に土産を背負わせている
ひとかどの武士の格好にはなっている
「どこのおさむらいかと思ったら、ひいではにゃーか、こりゃあ驚いた
つき、近所のやつらをみんな呼んで来い、ひいが立派になったと見せてやるでよぉ」
村一番の貧しい家だった、母親のナカも弟も妹も今朝までみじめな思いをしていたのだった、それが立派な武士になった長男が家来を連れて戻ってきた。
ナカは得意だった
「ほれ見たか! 孫作 太郎兵衛 門佐 みんな見たか
おまえらが石をぶつけた、ひいじゃ もう一度石を投げてみるか」
「とんでもねぇ、ひいさは村の英雄じゃ」
「ひいじゃねぇ、木下藤吉郎秀吉さまというのじゃ、家来も100人もいるんじゃぞ、殿様と呼ばれておるんじゃぞ、
やい!これからは、ひいさなどと言ったら首が飛ぶぞ、おまえら百姓とは違うでよ、さむらいじゃ」三蔵が腰の刀に手をかけて威圧した。
「まあまあ、昔のことはいわんでもええ、これからは儂のかかさまや妹たちと仲ようしてくれたらそれでええが」と秀吉がなだめた
「三蔵さも立派になられたのう」
「何をこく!いまさら 皆でわしを村八分にして追い出しとるくせに、それに儂ももはや三蔵ではないぞ、木下三右衛門蔵人(みつえもんくらんど)様じゃ
藤吉郎さまの御身内にしてもらったのよ、わかったか!」
「まあ三蔵さ、そうおこらんでちょうよ、立派なお武家さまになったでよぉ」
ようやく近所の者が帰って、家の中に入った
昔の儘のおんぼろ百姓家、武家屋敷に慣れた藤吉郎は埃っぽさと、ぬっとした空気となんともいえぬ臭いに閉口した。
この家に普通に暮らしていたことが不思議でならない、「つきももう26になるんじゃのう、嫁はおらんのか」
「誰が、こんな貧乏家に嫁に来るかよ、姉さは嫁に行ったが妹はまだじゃ」
「そうかわかった、今日と明日は儂は帰らんでええから、新しい家を探してやる、もそっと広くてきれいな家を買ってやるでよ」
「なにぃ、ひいや、それはほんとかよ! ほんとかよ」ナカが驚いた
「ああ本当だで、しんぱいせんでええ、銭なら捨てるほどあるでよ
それからなあ、つきは儂が連れて行って面倒見る、嫁ももろうてやるで安心しろ、来年には、あさにも婿を探してやるでよお」
「なんじゃと、ほんとうかよ、こりゃあどえれぇ福の神じゃ」
「おっかあと、あさは来年までまってくれろ、来年になったら清州に家を持ってそこで暮らせばよい、わしももう嫁がおるんじゃ、来年には会わせてやるで辛抱してちょ、とりあえず着るもんと銭を持ってきたで使ってくれ」
「おあやまあ、なんときれいな着物じゃ、いままで見たこともねぇよぉ
ありがてぇ、良い孝行息子を持ったもんじゃ」
ナカは泣き出してしまった
「あと一年じゃ、一年辛抱してくれ、そしたらきれいなべべ着て暮らすでよぉ、貧しい百姓などせんでもええぞ
そうだ、儂は本当のてて親の顔も名前も知らんが法事をやろう、あの男もついでに供養しよう」
「あの男とはなんじゃ、仮にもお前が大きゅうなるまで育てたのじゃ」
「だから供養するといっちょるがや、実の親も養父もみんな平等に供養するでよ、安心してちょうよ」
こうして家族に20年ぶりに会った藤吉郎であった、そして弟を墨俣へ連れて行き木下小一郎と名乗らせた。
桶狭間の戦から7年が過ぎた、秀吉も30歳になった
今川は完全になりを潜めた、三国同盟も武田信玄の離反で崩れた
後を継いだ氏真の奥方が北条氏なので北条との同盟は継続している、しかし今川領は三河の徳川家康によって遠江も蒲郡のあたりまで侵略された
いよいよ三河武士の強さが発揮されてきたのだ
そうなるまでには三河一向一揆という大きな危機を乗り越えた体験が家康を大きくさせて、家臣団の結束を強めたのだ。
3年前に起きた三河の一向一揆(いっこういっき)は徳川家臣団をも二分して相戦う内戦であった
昨日までの家臣に岡崎城まで攻め込まれ、家康自身身も危険を感じるほどのたいへんな戦だったのだ
後に家康の知恵袋となった本多正信さえ一揆側だったのだから、根の深さがわかる、正信にしても寺仏をとるか主君をとるかで悩んだことだろう。
ある一揆側の家臣などは家康と対峙したとたん「こりゃいかん、殿様だけには刀は向けられん」と一目散に逃げだしたという。
そんな二年越しの内戦であった。
