その後、数か月で織田軍の中に孤立した横山城と佐和山城は木下秀吉、丹羽長秀の手で落城した。
信長は二人の手柄をたたえて、長秀に3万石加増と佐和山城、秀吉に1万石加増と横山城を与えた。
佐々、柴田、明智、梁田、中川、佐久間らにも加増があった。
秀吉は小さいながらも本格的な城の城主になった、そしてここが対浅井の最前線基地になった、小谷城までおよそ10kmしかない。
ここに弟の小一郎と前野長康を入れて、秀吉は京に戻ったが、その前に信長に挨拶をするため岐阜に向かった。
久しぶりに家に戻った秀吉はここで半月を過ごした
もちろん、ねねともラブラブの時を過ごしたのである。
秀吉と言う男、一人の女に入れあげるタイプではなく、何人でも同時に愛することができるようである。
朝倉軍は手痛い傷を負って越前へと引き上げて行った、一乗谷にいる朝倉義景は敗軍の大将、朝倉景健(かげたけ)を諸将居並ぶ前で激しく罵った、
このことは面目丸つぶれの景健だけでなく、同席した一門の諸将にも暗い影を投げかけた。
「これに懲りて朝倉は一年は出てこれまい、先に浅井をかたずけてやろう」
信長は大勝利に機嫌が良い
「その前に近江の仕置きをして足場を固めておこう」どうしても京と岐阜の間の近江が弱く感じる、甲賀は蒲生親子がしっかり固めているが、琵琶湖の南部が安定していない、湖西は金ケ崎の退き陣のとき朽木元綱が味方になったことで少しは安心だが、朽木の領土は山間部だ
湖西の沿岸部はまだ浅井、朝倉の息がかかっているし、六角の残党や三好の残党が京から大津にかけて時折出没して火をかけたりしている。
いままで責任者を決めていなかったために対処が後手に回った、そこで点在する主要な城に重臣を配置することにしたのだ
彼らは皆、城持ち大名に出世した、最前線の横山城の秀吉はじめ、佐久間、柴田、中川、森長可、丹羽などである。
これで岐阜と京の間は確実に確保できる、そして京の防御、浅井への出撃拠点となる、これは大きい変革だ。
さらに将軍足利義昭の守護大名として摂津、河内(大坂)、大和(奈良)、山城(京)には細川、三好(義継)、池田、和田、松永らが配備された。
京に上った信長は、将軍義昭に先勝報告をしてから京都奉行に支持を与えて岐阜に戻った
「浅井、朝倉は数千も戦死してしばらくは鳴りを潜めるであろう、だが休ませはせぬ、来月には浅井を攻め滅ぼそう、長政め妹婿でありながら、もはや反故にしても良い朝倉ずれに義理を張って儂を攻め殺そうとしたこと絶対許さぬ」
そんなことを利家ら側近に言っていたが、そこに京から急ぎの使者がやってきた。
「申し上げます、三好勢が四国より大軍で大坂に上陸したよし、美濃の残党らも加わり、その数1万を超えるとのことでございます」
「なに!三好だと、性懲りもなくまた鈍亀が頭を出したか、それにしても1万とはよく集めたものだ、われらも出陣じゃ、将軍家にも伝えよ」
「ははあ」
「浅井、朝倉を懲らしめてまだ半月と言うに忙しいことよ、休まることがないわ」
信長は直ちに重臣たちを集め4万5千の大軍で摂津(大坂北部から兵庫県南部)に向かった、ここに将軍義昭も山城(京都)の諸将凡そ3000を引き連れて合流した。
「織田軍が大軍でやってくる」報告を聞いた三好方の総大将旧管領嫡子細川信良、三好康長、十河らがほくそ笑んだ。
「信長め、まんまと罠にかかったぞ、袋のネズミじゃ、直ちに本願寺と浅井朝倉に遣いを送れ、作戦通りに進めると」
信長らは天王寺あたりに陣を張った、一方の三好方は野田、福島の砦に籠って迎え撃った。
しかも淡路、摂津の土豪に加え、鉄砲を得意とする紀州(和歌山)の雑賀(さいが)衆など5000も加わって頑強に抵抗した。信長軍は足止めの形になった
信長が叱咤するが、敵は手強い、幕府軍の一部は襲撃されて敗退したほどだ
しかも、そんなところに伝令が来た
「大変です、本願寺が蜂起して信徒を動員しています、このままでは脇腹から攻められる恐れが」
巨大な宗教勢力である本願寺とは税や土地問題で日頃からもめ事が多かった
しかも本願寺は全国の一向一揆の総本山なのだ、「織田ごときに従うものか」と敵愾心をあらわにしている。
石山本願寺は、後の大坂城の地にあり、淀川をメインに迷路のような川が天然の堀となって容易に攻め寄せられない、しかも川を運河として寺から大坂湾に自由に出入りができる
僧侶などといってもお経を詠んで寺に閉じこもっているわけではない、旧教の奈良仏教の興福寺などは大和の武士などに従うどころか逆に従わせるほどの力を持った。
平安時代初期の奈良から長岡京遷都の一因も、帝が奈良の寺院の巨大化を嫌ったからだと言われている
今は奈良に加えて石山本願寺と各地に広がった一揆、比叡山延暦寺などが武家顔負けの軍事力を備えて治外法権を維持しているのだ。
信長は西の三好軍、東の本願寺に対して軍を分割しなければならなくなった
そこにまた追い打ちをかける伝令が来た
「琵琶湖西岸に浅井、朝倉勢が攻撃を仕掛けてきて宇土山城の森可成(よしなり)様、織田信治様討ち死にいたしました、六角や斎藤の残党や一揆勢も加わっている様子で、その数は2万とも3万とも」
この報告を聞いた信長は前線を下げた、信治は信長の弟である、宇佐山の守兵は3000、10倍の敵ではひとたまりもない
「おのれ、三好と本願寺と浅井朝倉は最初からこれを狙っていたのだ、挟み撃ちにしようと、まんまとハマってしまったわ、敵ながらあっぱれよ」
またもや信長は退き戦を強いられてしまった。
