9月に入ると、足利義昭の反対にも耳を貸さず、岐阜を発った信長は柴田、丹羽、中川、佐久間の老臣たちの軍団を先行させて六角や一揆軍の残党が籠る湖南の城を次々と襲わせた。
そして比叡山の銭箱ともいえる商業都市坂本を最初の血祭りにあげて放火して焼き尽くした、坂本にも叡山の小寺や伽藍が多い、その勢いのままに比叡山に押し寄せると、麓からあまたある伽藍に放火した、火は風にあおられて山上に向かって広がっていった。
そして織田の兵たちは煙の中を逃げ惑う僧侶、女、子供まで山にいる人間を片っ端から切り捨てた
「よいか女子供は相手にするな、刀が穢れる、僧兵と手向かう者のみに集中して切り捨てよ、高僧は捕えて縛り付けておけ、われらは武士らしく強兵のみを敵とする」
秀吉は自分の家臣たちにはそう告げた、そのため秀吉の旗印を見て逃げ落ちて来る者たちが多かったという。
逃げた僧侶には遠く下野(栃木)の寺社に向かった者も少なからずいたそうだ、とうぜん本願寺や奈良に逃げた者も多かったであろう。
この一大事件で信長が得たものは、延暦寺が所有していた寺領の莫大な土地であった、これを此度の恩賞として家臣に分け与えた。
失ったものは人の心であった、信長の家臣には無かったが、足利将軍の家臣である大和、山城や摂津の有力大名が裏切った。
この大惨事のあと、しばしの夏休みが訪れた
この頃には秀吉は任地である浅井との最前線横山城を棲み処として、凡そ1000人の兵で小谷城の監視をしている
だが息抜きも必要だ、秀吉はじめ、木下小一郎、竹中半兵衛、蜂須賀小六、前野小兵衛、堀尾吉晴ら秀吉の将校たちは交代で京や岐阜で息抜きをしている
妻子はみな岐阜にいるから、たいがいの者は岐阜で過ごす
しかし秀吉はそうはいかない、岐阜には母と妻ねねがいる、妹は家臣に嫁がせた、京には愛妾ふじと息子が住んでいる、息子も数えで3歳になった
岐阜か京かと言えば3度に2度は、愛息がいる京のふじのもとに行ってしまう
「そうじゃ、うかつと言えばうかつであった、戦続きで忘れておったが子に名前をつけねばのう」
「そうですとも、城持ち大名の子が名無しではあまりに可哀そうでございますよ」ふじは声を荒げることもなく微笑んで言った、ふじはまだ20歳になっていないはずだ。
「そうじゃのう、今夜は二人して徹夜で名前を考えるとしよう」
「若松丸」と名付けた。
3度に2度と言ったが、それは忙しい身の上、3か月に2度という程度である、だから本妻のいる本宅には3か月に1度が良いところである。
ねねは未亡人に等しい、だが今は織田家の危機であり、自分も最前線の守備隊長である限り仕方のないことであった。
「此度の仕置きにて敵味方がはっきりしたようです、大名では大和の松永、摂津の三好義継が本願寺方に寝返りました、将軍も最近は本願寺、浅井朝倉に通じ、越後の上杉、甲斐の武田、中国の毛利に頻繁に密書をおくっているよしにございます」丹羽長秀から信長に報告が入った。
「よし、義昭のことはおよがせて、明智と細川に探らせよう」
信長は、すぐに手を打った諸国に間者を送って各大名の動きを偵察させている、そして何食わぬ顔で将軍義昭と会った、義昭も知らん顔で対座している
「大和の松永久秀は謀反を企んで機会あらば二条御所を狙っているとのこと、これは放置できませぬ、近いうちに信長これを討ちます、とりあえずは筒井順慶を新しい守護として任命していただきたい、将軍家への忠誠を誓わせます故」
信長はすでに筒井順慶に大和一国支配の権限を与えていたが、とぼけて義昭に願い出たのだ、正式には将軍からの命が必要だからだ、地方では自称守護もいるが、さすがに都の辺りではそうはいかない。
義昭は松永が味方になったが、悟られてはいけないのでしぶしぶ筒井の守護就任を認めた。
義昭に扇動された者共が動き始めようとしていた、それらの動向は逐一信長に報告された
「来年にはいよいよ義昭の火遊びが火事を起こしそうな様子になってきた」岐阜城に諸将を集めて信長の演説が始まった。
「わが織田家は、これまでにない軍編成を行う。 これまでは他国と同じく兵のすべてを儂が掌握して戦局に応じて諸将に貸し与えていたが、今後は儂の元には馬廻りなど直属部隊以外はおかず、そなたたち重臣に定まった城と周辺の領地を与え、石高に応じて固定した兵数を与える、またその領内の土豪は与力衆として使って良い。
その代わり百姓を戦に動員することは禁ずる、百姓は米作りに専念させれば実り多く兵糧米も増える、これは他国にはない新しい制度だ、足軽は次男坊、三男坊を給金(米)を与えて扶持せよ、織田家は兵農分離でゆく、これで田植えだ、稲刈りだと戦を中断せずに済む、他国はそうはいかぬから刈り入れが終わるころ攻め込んでそれをいただくのも戦略であろう。
これより各武将の仕置きを申し渡す、速やかに移動を完了させて戦に備えよ、年が明ければ慌ただしい動きが始まるであろうから備えよ。」
信長は各重臣に領地を分け与えた、これからは指名された軍団が自らの兵だけを率いて戦場に挑むことになる、それは固定化するから訓練もしやすくなる。
1571年の織田家序列
天守殿 織田信長 林秀貞、前田利家など旗本馬廻り衆 小姓衆 母衣衆
一門衆 総大将織田信忠(信長嫡子)
従うもの(与力) 織田信包(信長弟) 津田信澄(信長弟、信勝の嫡男)
織田信孝(信長三男) 織田長益(信長末弟)
伊勢守護 北畠信雄(信長二男 安濃城) 与力 伊勢郷士
宿老 佐久間信盛(永原城)与力 栗田、野洲郡郷士
柴田勝家(長光寺城)与力 蒲生賢秀ら蒲生郡郷士
老臣 丹羽長秀(佐和山城) 与力 犬上郡郷士
明智光秀(坂本城) 与力 堅田衆および志賀郡郷士
重臣 木下秀吉(横山城) 与力 宮部継潤および坂田郡郷士
中川重政(安土城) 与力 観音寺、箕作郷士
磯野員昌(新庄城) 与力 朽木元綱および高島郡郷士
滝川一益 北伊勢および甲賀郡一帯 独立遊軍
蜂屋頼隆 尾張一帯 信長直系遊軍
外様衆
水野信元 尾張三河一帯
安藤 稲葉 美濃衆
神戸具盛 南伊勢衆
尾張国8郡の一つを領するに過ぎなかった織田弾正忠家は、天才信長一代で美濃、伊勢、南近江を切り取り、京の都も実効支配、さらに堺の既得権も得た
その家臣団も上図のごとく強大なものになった。
だがまだ序章である、信長の本領はここから始まる。