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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史小説 貧乏太閤記38 明智光秀登場

2022年10月18日 18時46分50秒 | 貧乏太閤記
翌、永禄11年、岐阜城に珍客が訪れた
「おお、そなたは明智十兵衛ではないか」信長が懐かし気に声を挙げた
「お久しゅうございました、此度の稲葉山攻めの大勝利、この光秀こころよりお祝い申し上げます」
「なあに、舅殿の仇を討ったまでよ、そなたも舅殿に最後まで奉公してくれて信長、礼を申す、ところであれから、そなたはどこに逃れたのじゃ、従兄妹の濃がいる尾張に来ればよいものを」
「今日は、それに関連したことでお願いに参りました、お聞きいただけますか」
信長は本妻である濃の消息を訪ねることもなく「むろんのことよ、遠慮せず話すがよい」
「実は戦に敗れ背後の山に逃れて、そこから峠を越えて越前の朝倉様を頼って行きました、そこで世話になっておりましたが
ある日、尊きお方が朝倉様を頼りやってまいられたのです、そのお方は三好らにだまし討ちされた将軍足利義輝さまの弟君、足利義昭さまでございました」
「おお、弟君がおられたのか」
「はい、僧であったのを還俗していただきお迎えいたしました、三好を討ち取り仇を討ち、自分が兄の後を継いで足利将軍家の復活を成し遂げたいと」
「それで朝倉を頼ったか、役には立つまい」
「まさに! おっしゃる通りでございます、朝倉義景さまはかってのような勇猛さを失い、
都から公家を招き館を都風にこしらえて庭園をも作り、四季を愛でて暮らすだけでございますから、とても都まで戦に行くとは申しません」
「いかにも朝倉じゃ」
「そこで供をしてきた細川様が私を訪ねてきて、『明智殿は朝倉家の家臣ではなく岐阜の織田様と縁者とお聞きしましたが』と問いかけてきましたので、
さようですと申しましたところ、上洛して賊徒を討ち足利将軍家を再興したいが頼みにしてきた朝倉様が動きませぬ、
織田信長様は内裏や将軍家への忠義心厚いお方と聞いておりますので、そちらを頼みにしたいと思い、つなぎのお願いに任し越した次第でございます』と申されました」
「なある」
「周囲を見ても武、勇、義、富を供えた大名は織田様以外に見あたりませぬ、まずは都への上洛、そして賊徒を討ち義昭さまを将軍にしていただきたいのです」
「さようであるか、だが越後の上杉もすべてを兼ね備えておる、忠義に至っては儂より遥かに熱い男と聞くが」
「上杉は都より遠すぎます、しかも関東で北条、信濃で武田、国内でも反乱あいつぎとても動けませぬ」
「話はわかった、しかし簡単に返答できるようなことではないからしばし猶予いただこう、そなたはしばらくここで逗留するがよい」
「わかりました、ゆく当てもない身ゆえ待たせていただきます」
たいした時間をかけぬうちに信長は決断した、「上洛の件、引き受けよう、だが条件が一つある」
「何でございましょうか」
「そなたが儂の家臣になるというなら足利の御曹司、間違いなく将軍の座にお付いたそう」
「なんと!」
「いやか」
「とんでもありませぬ、流浪の光秀にありがたきお言葉を頂戴し、感涙に震えております」
「そなたは宮中にも将軍家の礼儀作法、律令にも詳しいと聞いておる、ゆえに儂に仕えても当座は将軍家にも仕えるがよい
今の足利様はそなたと細川殿がいなければ羽をもがれたトンボじゃからのう、信頼抜群じゃ
儂と足利様との橋渡し役として活躍してもらいたいと思って居る、将軍には儂の家臣になることは伝えずともよい、黙って将軍に仕えよ、用のある時には使者を遣わす故」
「はは、ありがたきお言葉、忠勤に励みまする」
古渡、那古野、清州、小牧山と本拠の城を移ってきた信長だが、この岐阜城が気に入った、天守から見下ろすと長良川のきらめきが大蛇のようにうねっている
「これこそ儂にふさわしい城よ、天下がすべて見通せる気がするわ」とつぶやいた。

秋、信長は動いた、それ以前に都への妨げとなるものは誰かを調べた
南近江の六角はもともと足利将軍や朝廷に忠勤していた家柄である
信長もそれを聞いて安心していたが事態は逆になった
六角は隠居して六角承禎(義賢=よしかた)と当主の義治親子が抵抗戦を仕掛けてきた
理由は尾張の成り上がり大名を将軍が信頼して頼りにしたことが気に入らなかったのだ
信長は、そんな昔の栄光を鼻にかける者など問題にしない、権威主義などくそくらえだ
都への道すがら信長は6万と言う大軍だから六角の本拠観音寺城や南近江から甲賀方面への支城に一斉に攻撃をかけた、迅速であったから六角方は油断していた
しかも多勢に無勢、瞬く間に小城は落城し、太刀打ちできないと見るや六角親子はたちまち城を捨てていずこかへ逃げてしまった
甲賀方面の日野城主蒲生賢秀だけが頑強に抵抗しているのみとなった、承禎はどうやら蒲生を頼って行ったらしい。
信長は日野城を囲ませた兵を置いて京の都へと進軍した、洛中を我が物顔で歩いていた松永勢も鳴りを潜め、
三好一派も本拠地の四国に引き下がった、なんなく信長と義昭は都に入った
松永久秀は大和(奈良県)に威を張っていたが前年10月、三好一派との抗争で火をかけ東大寺の大仏殿を焼くという愚挙を行った
現代にまでその悪名は語り継がれている
斎藤道三同様、煮ても焼いても食えない曲者なのだ
強きに従い、弱気をくじく典型的な男だ、上杉輝虎とは正反対である。
とてもかなわないとみるや信長の元にも平身低頭で面会にやってきた、そして茶器の名物として名高い「つくも茄子」という名器を献上して機嫌を取り、大和安堵のお墨付きをもらった。
信長の権威に畿内の土豪や大名が次々とはせ参じた

足利義昭は信長の後見を得て、朝廷から足利15代征夷大将軍の地位を賜った、信長からは朝廷に莫大な金銀が献上された。
翌年には義昭の御所として二条城を造営した。
信長は本拠が岐阜なので京には長くとどまれない、そこで近年働きが目覚ましい木下秀吉、中川重政、柴田勝家、明智光秀などを京都奉行として置いた
永禄11年藤吉郎31歳のことである。 藤吉郎は墨俣城を蜂須賀小六勝正に任せて官僚としての役目に着いた




コスモスが咲いた

2022年10月18日 06時43分37秒 | 病気と健康
暑さと寒さが交互にやってきて体の中身がついていかない
運動機能は順調だが、くしゃみが出るとか呼吸器系機能調整が難しい
親しい同級生が相次いで受難だ、一人は脳梗塞で倒れてもう2週間近く昏睡したままだし
別の同級生は仕事中に階段から2mほど落下して腕を骨折して手術した
5分前まで元気でいても5分後にはどうなるかわからない高齢者の入り口
こうして身近な友の身に起こると。わが身にも沁みてくる
71歳72歳と言うのは鬼門のような気がしてきた、この二人もその年齢だし
一昨年には私の義兄弟(板前修業で寝起きを共にした男)も71歳で突然亡くなったし、私が大好きだった「ねえちゃん(実の姉ではない)」も、20歳頃上越沿線で一緒にスキーに行って遊んだその妹も、二人とも71歳で亡くなった
ねえちゃんは料理店の女将だったが、仕事が終わって23時ころ一人で晩酌している最中に突然亡くなってしまった。
先輩に「69と70はぜんぜん体が違ってくるよ」と言われたが実感している
71.72で体の不調を訴える人も何人か知っている、私も今年、来年は運命的にも健康的にも要注意の歳だという、静かに生きろと言うことなのだろう。
花を咲かせて、散歩をして、写真を撮って、ブログを書いて2023年末まで過ごすのか、貴重な日々を静かに過ごすのか・・・

私が初めて種を撒いたコスモスが次々と咲きだした、嬉しくて毎朝歯磨きしながら10分見ている、来年春にはもっと花を咲かせようと思っている。