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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(238) 甲越 川中島血戦 65

2024年10月31日 20時01分41秒 | 甲越軍記
 甘利、馬場、内藤、原、春日、山本勘助入道道鬼は、原昌勝の地理案内によって、やすやすと御嶽城にたどり着いた

山本勘道鬼はこれより八人を従えて、城の塀下に忍び寄って地の利を斥候した
そして松明を五、六百本を作らせて木の枝に結いつけた
これに兵士を五十人ばかりつけて、合図があったなら火をつけよと命じた

総勢三千余人、太鼓を打ち、鬨をあげて攻めかかる
無二無三に攻めかかれば、城方も険阻の要害を頼んで攻め入ることなかれと油断していたところに思いがけぬ敵勢来週
一戦もせず、慌てふためいて本丸に逃げ込んだ
天野鬼十郎も討ち死になる、敵は攻めよせてくる、なおも山々、谷々にも数百の松明が照らして攻め寄せるさまに、城中の足軽は元より、主だった勇士までもが戦意を失う始末である

大将、木曽義昌は「もはや叶わぬ」と思い、田山壱岐守をもって、木曽累代の所領全てを差し出して武田家に臣従を誓った
佐馬助信繁は、山本道鬼を召し出して、この件について問えば、山本は「御大将信玄の心は、信州のような国を五か国、六か国ほど得たくらいで満足するような小さな器量ではない、四国、九州の果てまでも傘下に収める気概を持った大量の大将である。此度は木曽の願いを受け容れて重く用いれば、更に攻め上っていっても信玄の仁心を慕って旗下に従う者が多いでありましょう、これ血を流さずに国を得る謀なり、早く本陣に告げて木曽の罪を許し給え」と申せば
佐馬助は「もっともなり」と信玄の本陣に伝えれば信玄もご機嫌よろしく、「木曽には本領安堵の上、信玄の姫を木曽家に嫁がせて婿とする」と申された
そして甲州へと帰陣した。

その年は年号の改元があって、弘治元年と号す、十二月左馬頭義昌父子は甲州に出仕すれば信玄は喜んで、千村備前守、山村新左衛門尉を姫君に差し添えて、木曽に輿入れとなる
穴山殿も、木曽を尊敬する旨を仰せになり、木曽の義昌は大いに面目を施しける。






同級生

2024年10月31日 09時11分38秒 | yottin日記
 昨日は高校時代の同級生15人で久しぶりに集まって親睦会をした
男女半々とバランスよく集まったものだ
今回は十年ぶりくらいに参加した男子も二人いて、任意の集まりの中ではもっとも多かった

以前は料理店に集まってやっていたが、近頃は気軽に集まれる居酒屋に代わっている
恐らく冷凍食品の解凍オンパレードだろうが、70半ばともなれば料理はつまみ程度で充分、アルコールさえあれば楽しい時間が過ごせる
ほとんどが年金暮らしであるから料理屋の7割くらいであがる予算もありがたい

68歳の時に卒業50周年の同級会を行い、その場で「次は古希に集まろう」となったが、コロナ騒動で中止になり、その後、リーダー兼事務総長のY子が急死して、もはや誰からも声があがらなくなった
それでも、昨日のメンバーは40歳の同級会の幹事ばかりなので、つーくんが「やっぱりやろうじゃないか」と声をあげたら、全員が賛同した
十数年ぶり参加のS君が「パーティ形式でなくても、レストランでコーヒーとケーキだけでもいいじゃないか」と言ったのでみんな吹き出して
「さすがは上流家庭のSくんだ」などとからかう

まあ我々の高校は最初は女学校だったのが、このメンバーが入学する8年前に男女共学となった商業高校で、2年後に工業科も併設されたのであるから当然進学校ではない
とくに取柄も無い学校で地元商店の子供たちも多かった、取柄と言えば甲子園に三回行ったことと、プロ選手を数人輩出したこと(名と成績を残した一軍選手は一人だけだが)、国体で1勝したこと、あとはテレビで今も活躍している有名タレントが二人ほどいるくらいか
学問や政財界で名を成した者は、私の記憶範囲には一人もいませんね
まあ、そんな学校ですが、「真善美」をモットーにみんな伸び伸びと生きてきました

同級生の多くが卒業後、東京など都会に出たけれど、多くが地元に戻って来て約30%くらいが住み着いています
そんな仲間です。