この度の時田合戦では 旗本の前備えは 馬場 甘利 内藤 板垣の 四手であった が、 山本道鬼の作戦を行うにあたって この 四手を戦に出したが 甘利 内藤 馬場の三将は粉骨を尽くして 勝利したが 板垣 弥冶郎 ただ一人 軍を出さず 見物していた
信玄は甚だ これを怒り「 板垣、諏訪の郡代でありながら、 酒宴遊興 にのみ 浸って、軍事を怠り法福寺の合戦にも虚病を構えて出陣せず、小山田までも騙して、戦を遅らせた、此度は 馬場 内藤 初老でもあり 苦戦を強いられたが 、
弥治郎は これを 他人ごとのように見ていた
甘利左衛門尉は若年であるが何度も戦功を表し感状を得た、弥治郎は組下に名誉の勇士を多く持ちながら 一度も手柄を立てず駿河守の嫡子なれば才あり臆病者ではないはずなのに、これは忠義の心が薄いとしか思えぬ、 仁義の心がないのだ」と、もってのほか 機嫌悪く、原隼人佐、市川宮内助の両人もって 板垣に これまで つけておいた二百騎の組を百五十騎は、飫冨源四郎に預け、源四郎を飫冨三郎兵衛昌景と名付け、また五十騎の組を春日源五郎に預けて、以前 栗原より移した組 百騎を合わせ、百五十騎の大将として、源五郎を改め 高坂弾正忠と名付けた。
ここに 岩間大蔵左衛門 という、 武田家譜代の武士がいた
父の 後を継いで参百貫の知行を得たが、天性の臆病者で 数度の出陣に馬を出せども鬨の声を聞くと たちまち 臆病になって、 一番に 逃げ出すこと たびたびあった
こんなざまで 手柄など あげることもなく、 しかし信玄公は武田家の古い家柄であるので 不憫に思われて なんとか 手柄を立てさせようと、 ある時は馬、物具を賜り 今度こそは手柄を立てよと 心優しく 言うけれども、 大蔵左衛門も 今度こそはと思い 勇んで 行くのだが またしても 戦場に出ると 逃げ出す しかも 遠くに逃げてしまうので、 信玄公は いかにしても 彼を 励まさんと卑怯のたびに 叱ったり 閉じ込めたりして すでに六度及んだが 治らず
信玄公は深く戒めて「 もし此度の合戦でも 今までのように 命を未練に思うならば 切腹して 臆病の汚名を濯ぐべし」 と言われた
大蔵左衛門 大いに恥入り 次の出陣には手柄を立てなければ 生きて再び、 信玄公の前に来ることなしと誓う。
その後 信州へ 攻め込んだ時 、飫冨兵部少輔の 脇備えを命じられる
此度は討ち死にと覚悟を決めて妻子親戚を集めて、 別れの杯を 取り交わして 憤然と発向した
合戦が始まり飫冨、小山田が 長尾政景の勢を 追いかける時 大蔵左衛門も共に馬を出したが、政景が大返しして攻めかかってくると 最初の決意もたちまち 消え去って 馬に鞭打って逃げ出す
家来たちは馬の口を握って「 ここは 別れの杯までして 出てきたのだから 勝敗も つかぬうちから どこかに逃げ去るなど、信玄公のお怒りを被って切腹 間違いなし、敵に向かって鞭を入れ 攻め込んで高名を表すべし、 今こそ汚名を濯ぐその時なり」
しかし 大蔵左衛門は 耳にも入れず ただただ 馬を飛ばして 遠くへ逃げ去った。
戦が終わり これを聞いて 信玄公は いかがするべきかと古老の人々を集めて「 岩間大蔵左衛門を今まで 叱り脅しなだめ透かしてきたが、相も変わらず臆病の虫治らず、切腹とまで申したがそれでも治らず、切腹などは本気で申したわけではないが、譜代の者を飼い殺しとするのも どうであろうか、 こうなれば似合いの役を申しつけるのが 良いのではないか」と意見を聞けば、皆「それが宜しいでしょう」と言った
信玄は岩間大蔵左衛門を、訴訟人事の訴えの役を命じて戦役を解いてやった
信玄の家臣を思う心、この一件にても以て知るべし。