その後も庄左衛門は数々の戦で高名を轟かせた
諏訪頼茂の城攻めで功を上げ、天文十五年の小笠原勢との戸石合戦では首三級を挙げ、同年十月には碓氷峠で上杉勢と戦った時には兜首二級を挙げ、雑兵を討ち取ること数知れず、自らも六か所の手傷を負う。
駿河守が碓井合戦の功労者を賞した時には、広瀬、三科とともに最上級の膳に据えてもらい面目大いに立つ
さて、各組衆の知行(給料)は半分を名田と言って、このうち少しの年貢を大将に差し出す通例あり、これを段銭という
板垣の組の二百人にも同様の決まりがあったが、板垣駿河守は特に曲淵の功績を尊び、曲淵ただ一人段銭を免除された。
しかるに板垣信方が討死した後を、嫡子板垣弥冶郎が継ぐと、曲淵に対して他の諸士同様に段銭を払うように命じた
しかし曲淵は「先代公からいただいたものであるから、断固として払わぬ」と言えば、弥冶郎は「先代は先代、時も移り屋形の御家が広くなり、家来衆も増えたので費えも増え、段銭をもって扶持とする
合戦も昔ほど多くなければ、そなたもさほど入用は無いはずである、某の代であれば某の申す通りにすべし」と言うが、曲淵は意を変えることなく、度々の催促も無視していた。
弥冶郎は腹を立てて、仲間小者を五十人曲淵の屋敷に遣わせて催促させるが、一向に曲淵は取りあわない
そこで「我ら、こうして主命で来ているのに、飯の一膳も出さぬとはけしからぬ」と難癖付ければ、曲淵は「うぬらに飯を食べさせる言われなどない」と取り合わぬ
そこで仲間どもは「ならば狼藉をするまで」といきり立つのを、曲淵はカラカラと笑い「やるならやって見よ、某はうぬらのような小者相手に取りあわぬ」と言えば
小者たちは曲淵の勇気に恐れをなして馳せ帰り、蔵衆にこのことを告げる
そもそも蔵衆の士とは、銭勘定のみに秀でていて、武道にはからっきしであるから曲淵に立ち向かう者など皆無であり、この件をそのまま板垣弥冶郎に伝えれば、壮士の弥治郎はいきり立って「頭の命に背き、暴言を吐くとは許しがたい」と言うと二百余りの与力組頭を呼び出して、それらが居並ぶ中に曲淵を呼び入れて申すには
「そなたが蔵衆に申したことは誠であるか、段銭を催促したにもかかわらず、それを拒みんだこと、某の知行のことなれば見逃すことならず
時勢が変わり、某が代になりそなたも某に従うべきところ、無礼なる振る舞いを重ね、某に向かって罵詈雑言を語るとは許しがたい」と眼を怒らせて言えば
回りの諸士も一斉に「曲淵ただ一人段銭免除とはおかしなことである」と弥治郎に味方した
曲淵は仲間どもの偽りの言を述べ、もはや話し合うことも無しと一同を睨みまわして、この場を発ち去って屋敷に戻った。
呆気にとられていたが、弥治郎は腹の虫がおさまらず、飫冨兵部少輔、原隼人の両名に会って曲淵の無礼な振る舞いを告げて、「このような無礼、法外なる者を捨てておけば、今は正しき者もこれを見習い無礼を働くようになれば御家の一大事であります、ぜひこのことを御大将にお伝え願い、御成敗していただきたい」頼めば、両名は「曲淵のことは確かに非礼ではあるが、御大将が秘蔵の者であれば、ここは寛大な気持ちをもって怒りを抑えるが良い」と受け付けなかった。
これを聞いて板垣はますます怒りが増して、今度は長坂左衛門、跡部大炊介に同じように願い出たところ、両名は快く引き受けて申すには
「板垣殿の申されること、いちいち承知いたした、曲淵ほどのものは甲信上にかけては二千も三千もある、曲淵めは僅かな手柄を鼻にかけて頭の下知をないがしろにするとは許し難し」と板垣に味方して、早々に御大将にこの一件を申し上げた。