:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二度あることは三度ある (その-4)

2008-07-23 23:17:45 | ★ 回想録

2008-07-23 16:25:46




〔終 幕〕 または「従順の勧め」 -第1場-  


  ここでは、キリスト者にとって「従順」とは何か、と言うテーマを、今回の一連の体験を通し、社会学的、神学的に考察してみたいと思う。
 「従順」の一語に呪縛され、虫のように苦しんできた多くの底辺の司祭たち、修道者、修道女たちに、小さな慰めと解放のメッセージとなればとの思いもある。 
  
 (このテーマ、一回で書き切ろうと思ったが長くなった。多分2回、場合によっては3回に分けてアップすることになるだろう)

(1)「従順」の歴史
 「従順」、それは、人類の歴史の中で最も古い、最も重いテーマである。
 旧約聖書の第1巻「創世記」の第2章以下によれば、天地万物の創造主なる神に対する人祖アダムとエヴァの「不従順」のために、人類は一人残らず「死」の運命を身に引き受けることになった。不従順は「原罪」、そしてあらゆる「罪」の根源である。
 ナザレのイエスの、死に至るまで、しかも十字架上の死に至るまでの「従順」によって、人祖の原罪の呪いは既に力を失い、復活の命が全ての人類に届いた。全ての人類とは、縦は、アダムとエヴァから世の終わりに生きている全ての人に。横は、西の端から東の端まで、いまこの宇宙船地球号に乗り組んでいる65億の人類全てのことである。つまり、第二のアダム「キリスト」の従順によって、キリストを信じる人にも、信じない人にも、全ての人に平等に復活の命に与るチャンスが与えられた。
 神様はご自分の内的生命の秘密の中で最も本質的なもの、つまり「理性」と「自由意志」のひとかけらを、ご自分の愛する被造物界の花、人類、にお与えになった。これは、神様からの人類への最高の贈り物、しかし、人間にとって最大のチャレンジとなった。
 このブログの途中で開店休業状態の「知床日記」=悪の根源について=シリーズ(2007年10月7日以来17回でまだ未完)★詳しくはここをクリック★ も、今回の「従順」問題も、元を糺せば全て、人間の人格の本質的特性であるこの「理性」と「自由意志」の問題に帰着する。

(2)「従順」の原点
 そもそも、「従順」の原点は、創造主なる神のみ旨に対する被造物の側からの信仰の行為であって、地上の人間社会における権威に対す「服従」とは似ていながら全く次元の異なるものである。「従順」とは、人間が神の前でのみなしうる最も高貴な信仰の業であると言い換えてもいい。
 ナザレのイエスが、ご自分の死に至るまでの従順を向けたのは、天の御父ただお一人に対してだけであった。イエスは、ローマ総督ピラトや、大祭司やファリサイ人たちに対して、「服従」も「屈服」もされることは無かった。まして、ご自分の「崇高な従順」を彼らに向けられることは決して無かった。「神の子」としての自由と尊厳は、地上の人間の権威の下に屈することなど、断じてあり得なかったのである。
 我々イエスのみ跡に従う信仰者も、「神の子供たち」として、この点において全く変わるところが無い。教皇であれ、司教であれ、修道会の長上であれ、彼らに「従順」するか否かは、命令を発する彼らが、同じ崇高な信仰の深みから、自らを透明な道具として、神のみ旨の伝達者として、正しく機能しているか否かにかかっている。彼らが、その信仰に照らして、自分が今下す命令は、神のみ旨を誤り無く伝えるものであると確信しているときに限り、それを受ける側も良心的に納得して、自由に心安んじて「従順」を向けることが可能となる。たとえ、その内容が自分の意思に完全に死ななければならない苦しい決断を伴う場合であっても、である。
 「従順」とは、明らかな神のみ旨を前にして、人間がその固有最高の能力である「理性」と「自由意志」を行使して、「知りながら」、「自由」に神のみ旨に自らを委ねることである。
 聖母マリアの受胎告知に対する応答については、このブログ 『マリア』 シリーズの中で詳しく書いた★詳しくはここをクリック★。これも処女マリアの命がけの「従順」であった。
 キリストのゲッセマネの血の汗を流すほどの葛藤も、おなじ「従順」の壮絶なドラマだった。
 「従順」とは、深い信仰に根ざした、人間のなしうる「最も高貴で神聖な行為」である。その意味において、我々が日常生活において「従順」の問題と正面から向き合うことは、生涯において一度あるかないかの、極めて稀な厳粛な場面においてのみありうる。
 教会の中では、「従順」がしばしば軽薄に人の口に上るが、実はそのほとんどの場合、世俗の会社や組織の中での日常的な人事の辞令とその受理、又は拒否、のレベルの話であって、厳粛かつ高貴な「従順」とは、およそ無縁の話である。
 教会、教会と言うが、通常その実態は世俗法に基づく団体、組織化された人間集団の事を指す。目に見える教会は、宗教法人○○司教区とか、修道会なら、宗教法人××会とか言う任意加盟の団体である。代表もいれば役員もいる、本部があれば幾つかの支部もある。そこで通常行われているのは、会社や役所の人事以上のものではない。そこへ「従順」と言う異次元の言葉を持ち込むから話はややこしくなるのである。

(3)「従順」の実践面について
 では、現実生活における「従順」はどのようにすれば直接天の御父に対する「従順」であることを保証することができるだろうか。また、「従順」が常に高貴な信仰の行為であることを、いかにして確保し、維持することが出来るか。
 それは、人の言葉、人の命令に対してではなく、常に良心の声、良心の命ずるところに従うことによってのみ保証される。つまり、人(上長)の命令と良心の命令とが相反するとき、人間は常に葛藤の中に立たされるが、その場合、上位に立つ命令は常に良心の命令でなければならない、という原則に忠実であることである。
 良心が人間の命令と反対のことを命じるとき、我々は人の命令に従うことに本能的に抵抗を感じる。その時、人は、受けた教育や、規則や、利害や、毀誉褒貶を気にして、安易に人の命令に従ってはならない。信仰ある人は、あくまでも良心の命令のみに従うべきものである。
 良心の命令に背いて人の命令に従うことは、ことばを替えて言えば、神に対する「不従順」に他ならない。だから、たとえこの世でいかに非難され、社会からいかなる制裁を受けようとも、また、時には大げさに教会に対する「不従順」の廉で宗教裁判にかけられ、火炙りにされようとも、従ってはならないのである。
 こう言えば、中世ならいざ知らず・・・、と反論する向きもあろう。しかし、現代は現代なりに、火炙りに勝るとも劣らぬ陰湿な制裁、蛇の生殺し、も十分ありうるのである。それでも、-たとえあらゆる不利益、不名誉を偲んでも-自分の良心に反しては、絶対に人の命令に従ってはならない。そして、この場合の人とは、司教であり、修道会の長上であり、時には教皇であってさえも・・・・、要するに、あらゆる宗教上の地上の権威を指している。
 幸い、教会と言えども、民間の会社や役所と同様に、通常は適材適所の常識が支配し、大きな問題に発展することはむしろ稀である。ただし、派閥の力学や、私怨による報復や、非合理ないじめなどが入ってくると、事はにわかに複雑になる。
 まして、歴史の大きな節目に当たって、「古い酒と古い皮袋」 対 「新しい酒と新しい皮袋」 の図式★詳しくはここをクリック★に嵌った妥協の余地の無い衝突ともなれば、事は極めて深刻である。
 既に終わっているコンスタンチン体制の夢になおしがみついている旧守派と、コンスタンチン体制後の新しい時代を生きようとする新しいカリスマとが対峙するとき、この問題-即ち「真の『従順』とは?」の問題-は、具体的な場面でたちまち深刻な問題として顕在化する。
 今回の、哀れな usagi を巻き込んだ 「現代の棄民」 の出来事は、まさにこのケースに属するのである。
(つづく)

コメント
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