:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二度あることは三度ある(その-2) 

2008-07-16 21:46:34 | ★ 回想録

2008-07-16 08:36:28




  二度あることは三度ある(その-2) 


 〔第一幕〕 「一度目の棄民」 (一年の流刑)
     続き  〔ローマでの苦難の生活〕

 ルルド祭が終わると、格安航空券とパスポートと銀行の国際キャッシュカードと小さな旅行カバンだけ持って成田からローマに向かった。
 
 前のF司教様のときは、司祭になる前の4年間と、司祭になってからの4年間、毎夏ローマから帰国したが、出発の挨拶に行けば、いつも執務室に迎えられ、その前にひざまづき、派遣の祝福をもらい、握手し笑顔で送り出されるのが当たり前の習慣になっていた。
 司教様が替わると事態は一変した。大内町の三本松教会を一人でひっそりと出ると、後は全てを神様の計らいに委ねる以外になす術はなかった。何の当てもなかった。何の保証もなかった。司教様からは、司祭の身分証明書も、推薦状も、何も与えられなかった。
 しかし、心は平安。何の恐れも無かった。何故か?
 それは、わたしが50歳で神学生としてローマに送られた次の年、秋9月末、もう一人の神学生と二人で、ベルリンに宣教に派遣されたときの経験があったからだ。
 聖書にもある。「イエスは12人を宣教に遣わすにあたり、次のように戒められた。・・・行くさきざきで、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。・・・帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。・・・働く人が生活のかてを得るのは当然だからである。・・・家に入ったら、平安を祈りなさい。・・・」(マタイ10章5節以下)2000年前、イエスが弟子たちにした同じ訓練を、私も受けた。
 8日間、一銭のお金も持たされず、パスポートと国際列車の往復切符だけを持って、アドリア海に面した小さな漁村から、ベルリンの町の人々に福音を告げに行くのが任務だった。ドイツの銀行に長年勤めた私に、言葉の不安はなかった。
 普段ポケットに幾ばくかのお金があると、神様の存在など、どこか遠くにあって、ほとんど意識することは無い。しかし、一銭も身につけないでいると、神様が手で触れられるほど近くに下りてきて、何から何まで、まるで召使が主人に仕えるかのように、全てを計らってくださる。
 8日間、一銭のお金も無く、しかし、ほとんどひもじい思いをしなかった。夜、誰も泊めてくれず、野宿を強いられたのはただの一夜だけだった。信仰ゆえに、お金の神様に一切信頼を置かず、ただひたすら福音を告げて歩くなら、天の御父は細やかに一切を配慮してくださるものだということを、その時、骨身に沁みて体験した。これは一生忘れることのない貴重な宝である。(この8日間の体験だけでも、数回分のブログを満たすに足るドラマに満ちていたが、それは、いつかまた書くとする。)
 さて、前回の8年間のローマでの生活のときは、まだECの通貨統合以前であった。円はリラに対して強かった。1万円の購買力は、ローマではほぼ1.5倍であった。ところが、今回はイタリアの通貨はすでにユーロだった。イタリアの物価はユーロへの切り替えに便乗して跳ね上がり、庶民の生活を直撃していた。それに加えて、円はユーロの対して弱い通貨に成り下がっていた。まさにダブルパンチだった。
 日本で月々振り込まれる9万円ちょっとのお手当ては、ローマでは5~6万円ほどの購買力しかなかった。東京よりは家賃が安いとは言え、住居費だけで吹き飛ぶほどの額でしかなかった。外国で孤立無援、常識的に考えれば、物乞いでもする以外に、生き延びるすべはなかった。
 そうだ、またローザの家に行こう!
 わたしは、ローマの8年間の学生生活の最後の数ヶ月を、共同体の姉妹のローザの家で過ごした。ローザとローザの家のことは、わたしの書いた唯一の本「バンカー、そして神父」=ウオールストリートからバチカンへ=(亜紀書房)の18ページ以下「チャイナバタフライ ― メディアの威力 ②」の項にある。
 電話の向こうのローザの反応は歯切れが悪かった。「わたしはいいけど・・・・、先住民がいるからねェ・・・・」
 例の本の中では、「1989年11月からほぼ8年間、わたしは司祭になるための勉強をしながら、ローマに住んだことがある。その悲喜こもごもの年月の最後の4ヶ月を、既に司祭になっていた私は、このローザの家で、穏やかに、幸せに過ごしたのであった」と書いたが、今回は、どうやらそんなに穏やかにも、幸せにもいきそうにない予感がした。
 「先住民って、また7羽の黄色いカナリアのこと?」「いいえ。若い二人のアフリカ人の神父たちよ。」
 白目が目立つ、くりくりの4個の目玉と、分厚い黒い唇から覘く大きな二組の白い歯が目に浮かんだ。
 今は年金生活の、元小学校教員の、独身女性ローザが一人住むにはゆったりしたマンション、かつて私が一人で優雅に過ごした家の寝室に一人、書斎に一人、体格のいい、真っ黒な肌の若い神父が住んでいた。空いているのは広い居間一室だけであった。彼らと交渉してそこに簡易ベッドを入れて住まわせてもらうことになった。ザンビアから留学にきた彼らも、私同様に、この広いローマで他に行くところが無かった。彼らの国の司教さんは貧しかった。留学生神父が普通住むはずの学寮の寮費が払えなかったのだ。そこで、ただで住めるローザの家に転がり込み、主食のとうもろこしの粉で作ったお団子を食べていた。彼らよりもさらに貧しい私は、彼らのお団子で養われることになった。正直なところ、パサパサで全く口に合わなかった。しかし、文句を言える身分にはなかった。私は、料理が出来ない。それで、月に一度ほど、見栄を張って彼らを日本レストランに連れて行った。彼らにしてみれば、大変な大ご馳走である。手放しで、大喜びであった。
 私は、長い外資系企業での生活を通して、かなりのコスモポリタン、人種的偏見の少ない日本人だと思っていた。しかし、彼らの体臭、洗面台に残る無数の黒いちぢれ毛、二人の意味不明の大声の会話と高笑い、テレビの娯楽番組の高いボリューム、頻繁な黒人の来客には、正直参った。マンションの入り口からひと続きの居間と彼らの居住区を仕切るものは一枚のカーテンだけで、プライバシーはなかった。
 秋も深まる頃、その彼らが相次いでローザの家から姿を消していった。外国人の神父が民間のアパートに住んでいること自体、もともと普通のことではない。私は日本人だから、ビザ無しでも何とかなるが、彼ら第三世界の人間は、神父だと言っても、ちゃんとした身分保障書と、それらしい学寮か、修道院か、教会に住所を持っていなければ、ビザの更新が出来なかったのだ。
 ローザの家に静寂が戻った。とうもろこしの粉の味気ないお団子ともお別れだった。
 この1年、前半はラテラノ大学付属のヨハネ・パウロ二世研究所で真面目に勉強をした。しかし、自分より年若い教授の型にはまった退屈なゼミと、親子ほど年の離れたクソ真面目な学生たちとの付き合いに、すぐ飽きてしまった。数え切れない美術館と、寄席や小さな芝居小屋と、コンサートめぐりで時間を潰す日々が続いた。
 前述の本は、その頃から本腰を入れて書き始めたものであった。
「バンカー、そして神父」=ウオールストリートからバチカンへ=(亜紀書房)。本当の副題は「放蕩息子の帰還」だが、心を病んだ妹の幸薄い生涯と、日本の精神医療の問題点を問う内容でもある。(まだお読みでない方は是非★ここをクリック★してみてください。そして、カートに入れてご購入ください。)


(冒頭の青い花の実です。誰か名前を教えてくださいませんか?)

MMさん。早速教えてくださって有難う。ニゲラですってね!(学名:Nigella damascena; 原産地:地中海沿岸; キンポウゲ科)

コメント
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