★ 当分書き貯めてあった巡礼記をご紹介します。既にどこかで読まれた方は、しばらくご忍耐を。もうすぐ新規書き下ろしに入りますから。
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ポーランド巡礼
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第一幕 第一場 クラコヴィア (クラカウ)
到着ロビーから直行したのはクラカウのとある小教区教会だった。
そこで他の3つの神学校の一行と合流し、4つの神学校の神学生が均等に混ざり合うように10人ぐらいずつの組に分けられることになっていた。全体の三分の一強がイタリア語を解するほかは、ポーランド語、ロシア語、日本語の順で通じるチャンスがある。
冒頭に「とある『小教区』に着いた」、とさりげなく書いたが、その教会の規模の大きさには度肝を抜かれた。
私が四国で3年余り主任司祭を張っていた三本松の教会など、私が聖堂を改築した後でも、やっと50人を収容すれば満員になる超ミニ教会だった。着任した時は日曜礼拝にやっと10人揃うか揃わないか・・・・、50人に増えたら移転して少し大きな教会を建てようと、ささやかな夢を膨らませたのが、我ながら実にいじらしく思い返される。
それがどうだ。重い鐘が頭上に落ちてきそうなこの不安定な鐘楼を備えた「小」教区教会の「大きさ」は!続きの写真でもおわかりの通り、これはまさに日本各地の県庁所在地を代表する○○県民ホールを遥かにしのぐ「大型箱モノ」と言った威風堂々たるたたずまいではないか。東京・目白台のカテドラルも玩具のように霞んで見えるというものだ。
ここではまだ日々何千人を収容する広さを必要とする実用性本位の建築意図が感じられた。
ローマでも、聖ペトロ大聖堂は例外として、古い大バジリカの多くは、どこも普段の日曜はおろか、大祝日でも閑散としているのが当たり前になっているというのに・・・・。
ここは、クラカウの中心を離れた新興住宅地だ。ポーランドの共産党は、ここに無神論者の町を創るつもりで、このあたり一帯に新しく教会を建てることを禁じたそうだ。それが、グダニスクの「連帯」運動以来、そしてポーランド人のヨハネ・パウロ2世教皇の即位以来、さらに共産党政権が崩壊してからというものは、反動として?皮肉にも?そこに巨大な教会が建てられるようになったのだと言う。
これは、やはりヨーロッパ随一のカトリック国ならではのことだろう。解放後の東欧でも、ポーランド以外では、そのような話はついぞ聞いたことがない。
ちなみに、米国のCIAの調査によると、国民の95%がカトリック教徒であり、うち75%が今なお敬虔な信者だ、ということになっている。
ホールで手際よく班分けが終わると、この二人は誰々の家、あの三人は誰さんのところと、実に手際良く相次いでホームステー先の家族に引き取られていった。そこが彼らの三日間の宿である。
残った平山司教様と私と、それにもう一人、75歳でイエズス会士を辞めて共同体に留まる苦渋の選択をしたスペイン人のスアレス神父の3人には、写真の背後の教会が帰属するフランシスコ会(コンヴェンツアール派)の修道院に部屋があてがわれた。
ミサの無い時間帯、聖堂の中に祈る人影は少なく、シンとした空気が全体にみなぎっていた。
二人の聖人(前教皇はまだ正式に列聖されてはいないが)の跡を慕う巡礼はもう既に始まっていた。
クラカウの司教で、電車通りを挟んで向かい側の司教館に住んでいたカルロ・ボイティワ(のちの教皇ヨハネ・パウロ2世)は、この教会の後ろのベンチの左側、薄暗がりの目立たない席で、好んで聖務日課の祈りを唱え、瞑想をしていたという。
教えられて行ってみると、そこには彼を記念する銀のプレートがあって、誰が置いたか、みずみずしいバラが一輪セロテープで止めてあった。
私は、クラカウを拠点にした巡礼の3日間、朝夕の自由時間の多くをこの席での祈りに費やした(無論、地元の敬虔な先客がいない限りの話で、そういう時はお互いに関渉し合わないほどの距離に我慢するのだったが・・・・)。
それだけではない。部屋をもらった修道院は、聖コルベ神父が日本に宣教に旅立つ前の数年間を過ごしたゆかりの場所で、建物の内部のいたるところに彼の霊気が漂っている。外部の人の入らない禁域の中だから、ことさらに彼が用いた部屋を永久保存したり、とかはなかったが、彼が食した食堂で食べ、彼が祈ったチャペルで祈り、彼が歩いた廊下や階段の全てを自分の空間とした。
例えば食堂。我々は正面上座のテーブルで朝食をとる。
(左から、スアレス神父、この修道院の院長、平山司教、右端がワルシャワのレデンプトーリスマーテルの院長。)
右側の壁には、おや、聖コルベ神父かなと思いきや、なぜか、やはりここに住んだ彼の弟の絵が一枚かかっていた。
食堂の反対の端から見ると食堂の広さと天井の高さがよく分かる。
この修道院には、現在約100人の司祭・修道士たちがいる。そのうちの42人が神学生、つまり明日の神父たちである。
日本にただ一つ生き残った東京の神学校には、全国16教区50万人足らずの信者のために20数名しか神学生がいないとの話。それに比べれば、ローマに亡命中の元高松教区立の神学院に20名は、一司教区としては大した数だったが、それが、ポーランドでは、無数にある各修道会の修道院の一つ、クラカウのフランシスコ会だけで40人以上いるというのだから驚く。ポーランド全体では、教区立と修道会立を合わせて、一体何千人いるのだろう。それでも、人口3800万のポーランドには、まだまだ司祭が足りないという。
(朝食をとる明日の神父たち。)
では、今日はこの辺で一区切りとしよう。
明日は巡礼の手始めにワルシャワの古都を探訪し、午後は「神の憐れみ」の聖地までの10数キロを、神学生たちは徒歩でたどることになっている。
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なーんだ、それだけ?
今回はつまらなかった!と、ぼやくことなかれ。
これはまだほんの小手調べ。まだまだ折れ曲がりながら、この先さらに軽妙に展開していく筈になっている。それが谷口神父の「物書く筆の弾み」というものなのだから・・・・。
だから、どうか引き続き、乞うご期待! 《つづく》