イスラエルで見つけた野生の孔雀
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★ 「インカルチュレーション」 (その-1)
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問題提起!
「キリスト教が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのは、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにした時期と明らかに符合する。
キリスト教は、その時を境にして、ローマ帝国の中で不協和音を奏でる異分子、気持ちよく共生できない嫌な存在、であることをやめて、ローマ帝国の文化(カルチャー)に滑らかに融合・土着化した。つまり、現代的なカトリック用語で言えば、『インカルチュレート』したのであった。」
と、こう書けば、「たまには奴もまともなことを言うではないか!」と褒めていただけるであろうか?
ところが・・・、である。
まことに残念ながら、私は、上のいわば定説とも言うべきものの捉えかたに、異議を差し挟むのである。
この定説は誤っている。そう私は断言できる。何故か?
それは、追い追い説明するとして、今はただ、上のような「インカルチュレーション」の言葉の誤った恣意的な使い方を、もしここで許してしまったら、第三千年紀におけるキリスト教のアジアへの、そして日本へのインカルチュレーションを論じるとき、再び、人々を同じとんでもない重大な過ちに導き入れる危険性が予想される、とだけ言いたいのである。
キリスト教のローマ帝国による国教化は、どのようにして進められたのか?
キリスト教徒ヘレナを母とするコンスタンティヌスは、一時期ミトラ教に傾倒したが、それ以前に信じていた宗教から身の破滅を予言され、無神論者になりかけていたと言われる。
コンスタンティヌスは、イタリア・北アフリカを制圧していた簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破り、ローマへ入城、ローマ皇帝(西の正帝)となった。
通俗的に流布している歴史によれば、この戦いの前にコンスタンティヌスは光り輝く十字架(キリストを意味する Ρ と Χ の組み文字という説もある)と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見たため、十字架を旗印とし、兵士の盾にその印を描かせて戦い、そして勝利した。
十字架がキリスト教の世界で広く重視されるようになったのはこの出来事以降のことであるらしい。ネロ皇帝による禁止以来、迫害され続けてきたキリスト教徒の間では、キリストの処刑の道具を信仰のシンボルとして用いることはそれまでなかった。
コンスタンティヌスは帝国の統一を維持するため、宗教面では寛容な政策を採り、313年ミラノ勅令によってキリスト教を公認し、後に国教にまでしたことは、後年キリスト教がローマ帝国領であったヨーロッパに浸透する決定的なきっかけとなった。しかし、それはまた、キリスト教の教義決定に異教徒の皇帝の介入を許す事態にもつながっていく。
コンスタンティヌス自身は、337年に小アジアのニコメディアで死去する直前まで、改宗して洗礼を受けることはなかったのである。
彼本人は、キリスト教とは異なり、「太陽神」を「御父」とした。
321年、キリスト教徒が主イエスの復活を祝う「週の初めの日」を「太陽を敬うべき日」と定めた。サンデー、つまり日曜日の起源である。さらに、太陽神の誕生日(12月25日)をキリストの誕生祝日に置き換えた。(実際のイエスの誕生日は5月頃であるという説もある。)
クリスマスの起原は太陽神崇拝にあるのであって、12月25日を祝う習慣は聖書の教えにはない。コンスタンティヌスはキリストの誕生日を「征服されざる太陽の誕生日」を祝うローマの異教の祭りの日と同じ日付にすることによって、異教徒を名目上の(つまり、回心の内実を伴わない)大量改宗に導くことに道を開いた。また、12月24日までの1週間は、ローマの農耕の神をたたえるサトゥルナリア祭で、そこからプレセントや食事の習慣がキリスト教に紛れ込んだ。このように、クリスマスが異教に起源を持っている事は広く認められていたので、17世紀ごろのイングランドやアメリカの植民地ではクリスマスを祝う事が禁じられていたという記録もある。
324年、コンスタンティヌスは東方の正帝リキニウスを破り、全ローマ帝国の単独皇帝となる。翌325年、キリスト教徒間の教義論争を解決するために初の公会議である第1ニケア公会議を開催、アリウス派を異端と決定し、こうして、皇帝がキリスト教の教義決定に介入する先例を作った。十字架が象徴として認知されたのも、「新約聖書」が現在の形で成立したのもこの頃である。このように、異教徒の皇帝が教義決定というようなキリスト教の重要な内部問題に介入すると言う事態が、ローマ帝国によるキリスト教受容の背景にあった。
「インカルチュレーション?」 (土着化、受肉)
問題は、それをもってキリスト教のローマ帝国文化へのインカルチュレーションと短絡的に言ってしまっていいものかどうかである?
もちろん、答えは断じて「ノー!」でなければならない。
先ずもって、コンスタンティヌスが「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う話を、無批判に史実として信じ、受け入れることが出来るだろうか?
現代人の合理的理性から言って、それはとても無理な話である。
百歩譲って、仮に彼がそういう白昼夢を見たというのが事実だったとしても、それを、キリスト教の神からのものだなどと言うのは、とんでもない話である。他の異教の神々ならいざ知らず、ナザレのイエスの天の御父は、そんな子供だましを弄ぶ神であるわけがない。
「友のために命を捨てるほど大いなる愛はない」と言う自分の教えを、生涯の最後の瞬間に十字架上の壮絶な死をもって体現して見せたナザレのイエスが、その愛の印である十字架、罪によって引き裂かれた神と人類との間の和解と一致の印である十字架を、ローマ帝国の覇権をめぐって野蛮な血なまぐさい戦争をするプロの殺人集団の旗印にすることを、神が許す、ましてや望む、ことなど絶対に有り得ないではないか。
元を糾せば、キリスト教はユダヤ教から派生したものである。旧約聖書において、既にモーゼの十戒の中に「殺してはならない」とあった。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と言う理想が掲げられてもいた。類似の表現は旧約聖書の随所に見られるのである。
ナザレのイエスは、そうしたユダヤ的精神風土、霊的遺産の完成者であった。
神が、殺人で生計を立てる職業軍人の軍旗の印としてイエスの十字架を用いよと告げることは、まさにイエスが命がけで説いた愛の教えを否定し、神が自らを冒涜し、神自身が自己矛盾を犯す行為に他ならないではないか。
あれは、神からではなく、人間の勝者、権力者によって、自らの行為の権威付けに、後付けで捏造された神話であって、無論史実ではなく、その背景には、別の様々な事情があったに違いないと考えるのが常識であろう。
当時のローマ帝国内では、既に300年の長きに亘って、ユダヤ教から派生したキリスト教が、危険分子として弾圧と迫害の対象とされてきた。
なぜ危険分子か?
ローマ皇帝を神として認めず、ローマ帝国の伝統的神々の偶像崇拝を拒否し、イエス・キリストへの信仰を守るためなら拷問も、十字架上の死も、貴族の戯れのショーのため円形競技場で野獣の餌食にされることすらも恐れない貧しい民衆(中には少数ながら、後の皇帝の母へレナのような高貴の出の人も混じってはいたが)の存在は、帝国の安定を脅かす危険な要素であった。
迫害すればするほど、燎原の火のごとく増え広まっていくキリスト教徒の群れをコントロールするには、ただ弾圧をエスカレートさせればよいというものではなかった。狡知に長けた政略家なら、むしろ、政策を転換し、キリスト教を積極的に帝国のシステムの中に取り込み、「去勢」し、骨抜きの体たらくにして、思い通りに制御する方が得策であることに気付くであろう。そのアイディアがコンスタンティヌスの頭に閃いたのであった。そして、その政策転換の権威付けとして「光り輝く十字架」と「汝これにて勝て」という文字が空に現れるのを見た、と言う神話が作り出されたのに違いないと私は考える。そして、その政策転換が、簒奪皇帝マクセンティウスを312年にミルウィウス橋の戦いで破る上で決定的な役割を演じたものと考えるべきだろう。
神話の部分はさておき、では、実際はどうだったのだろうか。
アダムが眠っている間に、神がそのわき腹の肋骨を抜き取って、それで人類の母、「エヴァ」を形作られたと旧約聖書の創世記にある。
十字架上のキリストの開かれたわき腹から血と水と共に生まれた「教会」(ラテン系の言語では女性名詞)は、キリストの花嫁(浄配)と呼ばれる。異教の神々を拝んでいた粗暴なローマ皇帝が、自分の好きなように何をしてもいいと思って虐げてきた「はした女」にも等しい「帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々」が、自分を捨ててキリスト教に帰依し、「キリストの花嫁」、「キリストの妻」となって、最早自分の意のままにならなくなった。これは皇帝のプライドをいたく傷つける出来事であったに違いない。実際面でも、税収の減少や、秩序のほころび、反乱の恐れさえあったろう。
色男「キリスト」に対する嫉妬とライバル意識から、皇帝は一度自分を捨てた「女」=「貧しい民衆」=「教会」を奪還し、手篭めにして再び自分の思い通りにしたい、と言うのが、ミラノ勅令の歴史的な真実ではなかったろうか。
皇帝は、一旦キリストに靡いた女(教会)が、再び自分の腕の中に戻ってくることを条件に、褒美として、豪邸を与え、きらびやかな衣装を纏わせ、それまでの「側女たち」は退け、彼女を「女神」として祭り上げ、偶像の神々の最高神祇官(さいこうじんぎかん)の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈ることを約束した。
「豪邸を与え」:(翻訳すると)皇帝による国教化に同意したキリスト教会に、褒美として「バジリカ」を与えた。バジリカとは、ローマの元老院などが、帝国の儀式や集会に使っていた方形の大型建造物である。今でも、ローマの遺跡、フォロ・ロマーノに行けば同種の建物を見ることが出来る。バチカンのサン・ピエトロ寺院を始めとして、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会など、主だった大聖堂がバジリカと呼ばれる所以である。
「きらびやかな衣装を纏わせ」:(翻訳すると)カトリック聖職者の祭服はローマの元老院の議員たちの礼服を模したものから始まったと言われる。
「それまでの側女たちを退け、彼女を『女神』として祭り上げ」:(翻訳すると)皇帝が拝み、市民にも拝むことを命じてきたギリシャ・ローマの神々を退け、その神殿を破壊し、破壊した神殿の石柱を再利用してそこにキリスト教の教会を建て、祭壇を築き、十字架を祀った。時には、異教の神殿をそのまま使って、偶像を取り除いた後に十字架を安置するだけの略式の宗旨替えもあった。
「最高神祇官の称号を彼女(教会)の司祭たちの頭に贈った」:(翻訳すると)キリストの12使徒の後継者たちとその協力者の司祭たちに、古代ローマの国家の神官職を与えた。以来、ローマの司教は「教皇」(法王)又は(ポンティフェクス・マクシムス、Pontifex Maximus)と呼ばれてきたが、それは、本来は、偶像の神々を拝んできた共和政ローマにおけるすべての神官の長として神官団 (Pontifices) を監督していた最高神祇官のことを指す。任期は終身。ローマには伝統的なローマ神については専任の神官が存在せず、その職は高い権威と人格を認められた一部のエリートが市民集会の投票で選出された。宗教的権威を統治機構の権威の源泉としていたローマでは、政務官として選ばれるに足る人物でなければ神官職に選ばれることはなく、また神官職の権威は選ばれた者に政務官にふさわしいとの権威を与えた。こうした神官職の頂点に立つ最高神祇官の権威は、他の官職と比べ何の権限も持たない割には非常に絶大で、神官団の中で最も権威と実績を持った高齢者が就任することが通常であった。最高神祇官にはフォルム・ロマヌムにあった公邸が与えられた。
これらのことは全て1対1で現代の教皇にそのまま当てはまる。彼は文字通りポンティフェクス・マクシムス(Pontifex Maximus)を自分の称号として用いている。彼の任期は終身である。かれは、キリスト教界の最高エリートである枢機卿達の間で互選される。彼は、宗教的権威と統治機構の権威を兼ね備え、バチカン市国の元首として宮殿に住んでいる。
このように、コンスタンチン体制は今もカトリック教会にしっかり生きている。
コンスタンチン体制とは、キリスト教がローマ帝国の歴史と文化にインカルチュレートしたものではない。キリスト教の魂が、ローマの歴史と文化に受肉しそれを生かし、帝国の風土に土着化しそれを豊かにしたのでもない。
キリストの花嫁、聖なる浄配であったものが、世俗主義の化身、ローマ皇帝に手篭めにされ、囲い込まれたあられもない姿である。キリスト教の魂は抜き取られ、ローマの偶像崇拝の精神がキリスト教の中心に忍び入ったというほうがむしろ正しいくらいである。
だから、教会は「サンタ・ペッカトリーチェ “Santa Peccatorice”」(聖なる罪の女)と呼ばれる。「聖なる」、なぜなら聖なるキリストの浄配だから。彼女は不実でも、彼、キリスト、は忠実で今も彼女を愛している。「罪の女」、なぜなら世俗の権威に魂を売り、身体を任せた自堕落な女だから・・・・。
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こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。
もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない。しかし、それは次回以降に回すほうがいい。
今は既に長く書きすぎたし、今回の目的は、「コンスタンチン体制はキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものだ」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、それで十分なのである。 (つづく)