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デュッセルドルフ-4 (追憶)
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ガラリ と トーンを変えよう。
若者たちは夕食をたっぷりとったら、また22時間のバスドライブでローマに帰ることになっていた。
私は、あの過酷な夜行バスに恐れをなして、デュッセルドルフに延泊を決めていた。レストランから宿にレイトチェックインを告げようとしたが、何度かけても電話が通じない。見かねたレストランのオーナーが自分のベンツで送ってくれた。何と気さくな飾らない人だろうと思った。
着いて見てわかった。一人でレセプションに居た若い女性が、ホテルの代表ナンバーで彼氏と長電話していたのだった。
右が親切なレストランのオーナー
デュッセルドルフ。それは、私が長期にわたって居住した最初の外国の町だった。30歳台半ばの若さで、今はドイツで第1位の銀行にのし上がった当時のコメルツバンクにおける唯一の日本人スタッフだった。
いつかはカトリックの神父になりたい、と言う思いはひとまず封印して、派手で刺激的な国際金融業の武者修行に、初めの一歩を踏み出したばかりだった。言葉に尽くせない様々な想い出のこめられた場所だ。
週末は陸続きの地の利を生かして、西ドイツ各地は言うに及ばず、ペルギー、オランダ、フランス、オーストリア、等々、日帰り、一泊二日、又は有給休暇を一日足して2泊3日のドライブで地方都市や田舎の村々をめぐり歩いたものだ。
時あたかも、日本では友人のジャーナリストが、秋田郊外の湯沢台と言う場所にある女子修道院で、聖母マリアがシスターSに現れ、重大なメッセージが託され、仏師が彫った木彫りのマリア様像が涙を流すなど、不思議な出来事の数々が起きていると言うニュースを、彼の編集するカトリックグラフと言う月刊誌で特集連載していた。メッセージの内容は、「このまま奢った罪深い生活が続けば、大きな災害が起こる」と言うような意味のものだったと記憶する。今の地震や津波、それに原発の人災がそれと関係があるだろうか?
日曜日に教会に通うと言うカトリック信者にとって基本的な習慣を完全に放棄してしまっていた私だが、その記事に刺激され、それに呼応して、私もヨーロッパ中のマリア様の出現の地を、史実や伝承を頼りにくまなく巡り、彼のカトリックグラフにたくさんの写真を送って連載記事を書いていたのを懐かしく思い出す。
40年も前の話だ。当時の交友関係のアドレス帳も持ち合わせなかった。しかし、自分が住んだ二つのアパートの通りと番地、建物のたたずまいぐらいは覚えていた。ひょっとしたら、当時の家主の息子ぐらいには会って昔を懐かしむことが出来るかも知れないと言う淡い期待を抱き、足を向けた。しかし、最初に住んだホ―フガルテン(宮廷公園)の傍のアーノルド・シュトラーセ26番地の表札には、往時を偲ばせる名前はもう一つもなかった。
ホ―フガルテン(宮廷公園)のすぐ側の角のこのクリーム色の建物の2階から私の海外生活が始まったのだった
ホ―フガルテンに入ると結婚披露パーティーが開かれていた。
公園をパーティー会場に使うとは粋なアイディアではないか?
トラムに乗ってテオドールホイスブリュッケでライン川を渡り、対岸のオーバーカッセルのジークフリードシュトラーセ31番地に向かった。
真ん中の建物の二階が私のアパート。家主のパイプオルガン奏者 Dr.エシュマン は3階に住んでいたのだが・・・
往時と変わらぬ静かな佇まいだった。見上げると、大家さんが住んでいた3階の大きく開いた窓から、若い男性が下を見降ろしていた。
「ひょっとしてドクター・エシュマンの息子さんですか?」 と叫んだ。
すると、その人は、「いや、私はただのペンキ職人だ。ここの家主さんはもう代ったよ。」と返ってきた。過去とのつながりを暗示するような印は、もう何処にも見出せなくなっていた。
当然と言えば当然だ。十分にあり得ることではあったが、急に孤独感と寂寥が私の身を包んだ。昔に繋がる手掛かりを見つけたら、その糸を辿って時を過そうと1日半の時間を取っていた。
デュッセルドルフの市街をただ当てもなく、くまなく歩いた。40年間何も変わっていないと言えば変わっていなかった。駅前は確かにきれいになっていた。ケーニヒスアレーは今もドイツの「小さなパリ」の名に恥じない垢ぬけした気品さえ漂わせていた。
ケーニヒスアレーの真ん中の掘割り
青春の甘酸っぱい想い出がこみ上げてきた。脚が棒になるまで歩いて、アルトシュタットで休んで黒ビールを飲んだ。
詩人ハインリッヒ・ハイネの生家。いまは文学書の商社になっている。
デュッセルドルフの遊覧船にも乗った。しかし、それでもまだまる一日時間が残った。
遊覧船の上から眺めるデュッセルドルフのシンボルのランベルト教会の傾いた鐘楼と、水源のスイスの湖から745KM地点。
そうだ、本格的なライン下りをしよう。
汽車でリューデスハイムまでライン川を遡り、そこからコブレンツまで船で下る、定番のコースを選んだ。
リューデスハイムにはドロッセルガッセ、訳すと「ツグミ横町」と言う狭い短い坂道があって、両側にはワインレストランやみやげ物屋が並んでいる。
その日は生憎と降ったり止んだりの冷たい小雨模様だった。
ブドウの房をあしらったツグミ横町の看板 狭い横町の人通り
作曲家ブラームスの道
ライン川を見下ろす丘へ行くザイルバーン(空中ケーブル)ですれ違った子供連れ 眼の下のブド―畑を行くトラクタートレイン
小雨の中を急ぎ足の少女たち ワインレストランで歌う楽師さん
古城の下を行く私の乗った船の同型船 ライン川沿いの家並み
ローレライの岩が目前に現れると遊覧船内にローレライのメロディーが響く ライン川はここで鋭角に曲がりそこに危険な岩礁が現れる
ザンクト・ゴアルハウゼンはローレライの町
ライン川に沿って立つ無数の古城の一つ
終点のコブレンツに着いた。 町のあちこちにユーモラスなブロンズの彫刻が
今はカトリックの神父をしている私だが、40年近く前、コメルツバンクの社員としてデュッセルドルフに住み、色彩豊かなビジネスマンの生活を楽しんでいた。私の遅い青春で最も輝いていた時代ではなかったかと、懐かしい想い出をかみしめる1日だった。