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津波の被災地は今-2
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私が訪れた東松島市とその周辺に住む人たちの多くは、程度の差はあれ、津波で家を失ったり、家族の誰かを失ったりの、深い痛手を負った被災者たちです。
着いて二日目は、あらたあめて松島地方の被災地くまなく巡りました。被災地は、前のブログにも書いた通り、5か月以上経った今でも、津波の爪痕は生々しく、もう心が張り裂けるような思いでした。
7月31日の「石巻かほく新聞」のたくさんの広告の中の一つ。この家族の場合、喪主を残してほぼ一家全滅?犠牲者の死亡日が3月11日に遡るこの種の広告が新聞の半ページを占めることが今でも少なくない。
三日目は夕方6時から石巻の北上川の河口で、地震・津波の犠牲者たちの慰霊と追悼のための灯篭流しがあるということで、朝から松島や石巻の海岸地帯、そして津波が遡上して無残に破壊した谷合の奥の村々などを見て回りました。
初めの予定では、土地に詳しい或る男性が運転して、私と彼女と3人で出かけるはずでした。ところが、いざ出発になって見ると、よい機会だからと、彼女の両親も一緒に行くことになっていました。実は、彼女の両親はこの5ヶ月間、周りの被災地の状況をまだ一度も見に行く心の余裕がなかったのでした。
彼は、私たちを乗せて、津波に襲われた宮城県の海沿いの被災地一帯を案内してくれました。
「よみがえれ故郷 ふんばれ」、の文字が。 津波はこのビルの屋根を越えて行った。
お昼の時間には、海に突き出した断崖の上にあって津波からは免れた立派なリゾートホテルで食事を頂いて、午後は海岸線の地盤沈下ですっかり様子が変わった岩礁の景勝地などもまわりました。
そのうち、何を思ったか、運転をしていた彼が、ここまで来たのだから、ついでに女川(おながわ)のあたりも回って見ようか、と言い出しました。
山道を回って、峠を越えると、女川町の一帯が目の下に展開してきました。谷筋は奥の方まで家々がなぎ倒され流されて跡形もなく、山肌に沿って立つ民家もある高さから下は半壊・全壊の残骸をさらし、下の平地には数少ない鉄筋コンクリートの建造物だけがもとの場所に留まっているとはいえ、3階建ての建物の屋上に車が載っていたり、4階建ての建物も窓は全部抜けて、中はがらんどうだったり、ひどいのは基礎の杭まで引き抜かれて横倒しになっていました。
津波の表面を漂った車は、最後にこのビルの上に着地した。背後の杉の森は津波に洗われた高さまで茶色に塩枯れているのが分かりますか?
津波に水没し屋上に漂流した瓦礫を乗せたビルの前に、なぜか一台のアップライトピアノが
良く見るとピアノ線は一本残らず切れていた。何故だろう?
頭上を旋回する海上保安庁のコーストガードのヘリは良く見ると機首から何か白い小箱状のものを釣り下げている。放射線測定器?まさか!
そんなビルの一つが、「防災対策庁舎」の廃墟でした。屋上には放送用の塔が立ち、防災無線や放送の設備が付いていたはずでした。それを指しながら運転していた彼は、こんな逸話を話してくれました。
周りの木造家屋が全部津波でさらわれた中で、この「防災対策庁舎」の鉄骨だけが辛うじて残っていて、地盤沈下で出来た水面に影を落としていた。
あの建物には防災無線の放送を担当する若い独身の職員がいた。津波の日、彼女はマイクに向かって懸命に高台への避難を促す放送を送り続けていた。彼女の母親は屋外の防災無線のスピーカーから流れる娘の声に励まされ、誘導されて避難を急いでいた。突然彼女の声が途絶えたが、避難を続けた母親は無事高台に逃れて助かった。後でわかったことだが、娘の放送の声が途絶えたちょうどその瞬間に、無情にも津波はその建物をすっぽりと呑み込んでいたのだった。彼女は結婚式を間近に控えていた。後日、彼女の婚約者は殉職して行方不明になっていたフィアンセの変わり果てた遺体を無念の思いで探し当てた、と言う話だった。
アップして良く見ると正面に祭壇が設けられ、花や供え物が載せられていた。
(つづく)