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津波の被災地は今-1
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16年前の阪神淡路大震災の時同様、3.11の時も私はローマに居た。イタリアの新聞の第一面を占領した福島第一原発の爆発のきのこ雲のカラー写真(あれは日本のメディアが殆んど掲載を控えたほど強烈なものだったが)を見た時、私は人災に特有なショックを禁じ得なかった。広島、長崎の原発のきのこ雲や、9.11の崩れゆくニューヨークのワールドトレードセンタービルの姿とダブって見えたからだ。
イタリアの新聞のトップを飾ったこのショッキングな写真(黒雲は煙突の高さの優に3倍に達している)は、日本ではあまり知られていないのではないか?あくまで素人判断だが、これは一般に広く流布した白っぽい色の爆煙が二本の煙突の高さあたりで横に広がっている「水素爆発」の写真とは全く異質な爆発ではないかと思っている。この爆発の直前の白橙色に光った火の玉の写真と合わせて考えると、爆発後も圧力容器が原型をとどめたいたとすれば、メルトダウンした貯蔵プールの核燃料の高温の塊が臨界に達して核爆発を起こしたチェルノブイリ型の爆発であったことを示しているのではないだろうか。広島・長崎の原爆は当時「ピカドン」と呼ばれた。この黒いきのこ雲もピカドンのパターンをなしている。家畜資料に使われた稲わらの高レベルの放射線を放つセシウムは、実はこの一発で一気にばらまかれたものではないだろうか。
左の写真は3号機の謎の爆発の最初の瞬間の閃光だろう。その直後のきのこ雲が上のイタリアの新聞を飾った写真だったはず。建屋が3号機の場合のように徹底的に壊滅しなかった右の1号機の水素爆発とは全く違う。私は水素100パーセントを詰めた巨大な風船?である飛行船ツェっぺリン号の悲劇の炎上の映像を子供の時にみたことがあるが、その水素の総量は3号機の建屋の内部空間よりもはるかに多かったはずだが、メラメラと燃えあがるようで爆発には至らなかった。少量の水素でも、酸素との混合比によっては燃え方(爆発の仕方)はより激しくなることはあり得るとしても、巨大なコンクリートの塊を天空高く吹き上げた黒いきのこ雲を作るだけの力はないはずだ。津波の翌日には炉心のメルトダウンの可能性を把握していた保安院が、5か月経った今ごろまでその事実を隠していたこと思えば、上の三枚の写真の背後にも後日明らかになるであろう巨大な嘘が潜んでいるとしても驚くには値しない。
帰国して一段落すると、居ても立ってもいられず、東京の友人に車を借りて、気がかりな知人を東松島市の実家に訪ねた。
着いて一息お茶を頂くと、日が暮れるまでの間にと、お父さんがま新しいワゴン車で東松島市の一帯の津波の跡を案内してくださった。その車中で聞いた津波の時の出来事を綴ってみよう。
嫁ぎ先のグアム島から取るものも取りあえず支援に駆けつけた彼女の実家は、津波の牙が及んだ先端ぎりぎりのところにあって、幸い土台からさらわれ押し流されて全壊することだけは辛うじて免れたものの、床上60~70センチまで塩水に浸かり、彼女が苦労してたどり着いた時には、まだ1階部分は畳も家具も家電製品も全滅の上、屋内にも床下にも分厚くヘドロが沈殿してその上を大小の漂流物が散乱していて、全く手のつけられない状態だったと言う。
後でわかったことだが、彼女のお母さんはいち早く高台に逃れ無事で、津波の被害を免れた知人の家に身を寄せていたが、父親はその地区一帯の区長さんをしておられた関係上、津波警報の中、自分の6人乗りのワゴン車に避難する人を10人ほど乗れるだけ詰め込んで2度高台を往復し、なお逃げ遅れている人を探して3度目に下に降りたところで津波に飲み込まれ押し流された。ドアを開けて脱出しようにも水圧でドアが開かず、もうこれまでか、と思った時に、流木か何かに激突して奇跡的にドアが開き、辛うじて一命を取り留めたそうだが、3月の雪の中、ずぶぬれで寒さに体温を奪われ、ガタガタ打ち震えて行き倒れ、まさに凍死しそうになったそのとき、通りがかった一人のご婦人が着ていたダウンのヤッケを脱いで着せてくれて、御かげで一命を取り留めたということだった。
それにしても、津波の引いたあとの人っ子一人いない瓦礫の原ですれ違った婦人は、そのあとあの寒さの中を上着も無しに一体何処へ消えて行ったのだろうかと不思議でならなかった。感謝の気持ちを伝えたいと近隣の生存者の間を探し歩いたが、該当する人にはついに巡り合わなかったそうだ。あれは、きっとマリア様による奇跡だったのだ、と言うことで皆は納得している。
父親の性格と職掌を知っていた彼女は、きっと人を助けて自分は殉職しているに違いないと諦めていたから、生きて会えたこと自体、まさに奇跡を見る思いだったそうだ。
初めは家の中に足を踏み入れることもできず、ライフラインも途絶えて、仕方なく車を失った吹きっさらしのガレージでの生活が始まった。お母さんは引き続き安全な知人の家に預け、九死に一生を得た父親と、生き延びて助かった近所に住む兄と、迫りくる津波に追われて裸足で高台の急坂を這い上がって命拾いをした従兄弟と、男三人女一人のサバイバルゲームが始まった。
夜の灯りは結婚式場で記念に買い取らされた太いウエディングローソク。食料は近所に幾つも流れ着いている冷蔵庫から頂き、お米も拾ってきて洗って乾かしたものだった。
たき火で暖を取り、着の身着のまま眠り、一階の家具を全部外に出し、ヘドロを掻き出し、その下に現れた塩水を吸って一枚100キロを超える畳を、取り落とし、取り落とししながらやっとの思いで全部道端に捨て、床下の分厚いヘドロも取り除くのに、数週間を要した。ローソクが尽きる頃、やっと電気が来たが、その頃には、あと1日ぐらいはローソクで生活してみようか、と言えるぐらい、異常な生活に対する慣れと余裕か生まれていたそうだ。
5か月近い一家の奮闘の話を、聞いたまま全部を書き記したら膨大なものになる。一個のおにぎりを4人で分け合うところからから始まった周りの避難所生活。恐ろしい腐臭の中、疲れた体を引きずるようにして行方不明の身内を探し回る果てしない日々、・・・しかし、それら全ては、私がローマにいてインターネットの情報から想像していたことと、日本の国内のメディアがすでに克明にレポートしたことの二番煎じに過ぎないのかも知れないので、これ以は上書かない。
自衛隊が活躍したし、ボランティアや全国の警察機動隊は私が訪れた時にはまだ活動を続けていた。
被災地からわずか2~3キロしか離れていない津波が届かなかった場所に住む人は、ローマに居た私同様、地震以前と全く変わりない日常生活をしているのに、彼女の家から1キロも離れない海岸寄りの家々は全て、残されたコンクリートの土台にわずかに痕跡を偲ぶことが出来るほかは、跡形もなく消え去っていて、そこに住んでいた人々は今も避難所で展望のない生活を強いられている。しかもこの2~3キロしか離れていない二つの世界に住む人々は、互いに殆んど行き来することもなく、同じ時間の経過の中で全く別の、まさに天国と地獄の運命と現実を辿っている。
津波の跡は、6歳で被爆直後の広島に引っ越した時に私が見た、あのまっ平らな原爆の荒野と同じだった。以下、私の見た今の被災地の姿を紹介したい。
東北魂に期待しよう
ここにぎっしり軒を連ねていた家々は跡形もなく消え去り、その残骸は遠く巨大な山を築いている。
小学校の校庭は瓦礫の集積場。校舎一階の窓は全滅。時計は地震発生4分後に止まったまま。
何千台もころがる広大な車の墓場に消防車も。 沈下して池と化した低地にまだ取り残された車。
仮説住宅の建設は急ピッチに進み、 この日ボランティアーたちは側溝のヘドロ掻きに精を出していた。
野蒜の駅の架線は失われ、案内板にうっすら残る横縞状の汚れは津波の高さを刻んでいる。
昔ここに野蒜駅ありき。仙石線は廃線になるか、コースを変えるか、まだ結論は出ていない。駅ですれ違って反対方向に行った列車は、津波に飲まれて脱線、転覆したが、助かったこれはもう5カ月止まったまま。野蒜の駅では架線もない。電気は来ない。
飼い主は死んだか?
たどたどしい文字に願いが込められて
堤防の向こうの海の上にうっすらと希望の虹が
航空自衛隊の松島基地は日本唯一のアクロバット飛行隊の基地だったが、このモニュメントの飛べない一機を除いて、全機が津波で失われた。
地盤沈下で水没した土地の向こうに、夕陽が沈む
(つづく)