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シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》
= ルブリン編 =
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WYDは思いがけず長くなり、最後の《秘話》を入れると全8編になった。
ここで、今まで中断していた 《シンフォニー》 のテーマに戻って完結しようと思う。
あれから旅の一座はアウシュヴィッツを発って、ルブリンに向かった。
約360キロの道程は高速道路が無いので、バスで6時間ほどの長旅だ。
途中クラカウの街で小休止。クラシックな馬車がお似合いの美しい街だ。
小雨でなければ、白い幌は後ろに倒してオープン馬車になるのだが・・・
クラカウの司教館は前回のポーランド巡礼(ブログ参照)でも紹介したが、入り口の上には今でも
教皇ヨハネパウロ2世の写真が飾られている。そして、中庭の回廊には教皇暗殺の瞬間の写真パネルがまだ残されていた。
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/ccc56dc64253860d0e70aa67f3ba9e35
夕方ルブリンに着いた。私にとっては二度目の訪問だ。
一度目は、私が神学生としてローマに来て2度目のクリスマスだったと思うが、
休暇中ポーランド人の若い神学生 コンラード・チュバ 君の実家に世話になった。
20年前のコンラードはまだ初々しい色白の少年だったが、その後神学生を辞めて国に帰り、
結婚して7人の子持ちになり、再会した時には、顎鬚に白いもののまじった立派な父親になっていた。
キコは何故ルブリンをシンフォニーの演奏地に選んだのか?
それは第二次世界大戦のさなかに起きたナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害の追憶のためだ。
ルブリンは緑豊かな閑静な街で、ヨハネ・パウロ2世が教鞭をとったことで有名なヨハネ・パウロ2世・ルブリン・カトリック大学がある。そして、日本ではあまり知られていないが、郊外のマイダネクには、ナチス・ドイツによって建設されたルブリン強制収容所があって、
その規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ大きさだった。
ルブリンにはもともと人口のおよそ40%を占める活発なユダヤ人社会があったが、1939年、ドイツ軍に占領され、1941年に郊外に巨大な絶滅収容所建設されると、1942年に町のユダヤ人の大半が殺害された。
高さ4メートルの支柱を2列に立ててその間を有刺鉄線で結んでフェンスとし、2列の柱の間に対角線に渡された有刺鉄線には高圧電流が流れていた。一定間隔に機関銃を備え付けた監視塔を設け、警察犬として200頭のシェパードも飼われていたという。
マイダネクにある慰霊碑の建材には犠牲者の遺灰が混ぜられている。
20年前、コンラードは私をここに案内した。そのとき私が撮ったフイルムは既に散逸して無いが、
それは、クリスマスの頃、マイナス20度のどんよりと曇った雪景色の慰霊碑の写真だった。
凍てついたコンクリートの巨大なモニュメント。急な階段を上って中に入ると、吹きさらしの中に
やや黄味を帯びた白い大きな砂山のように見えたが、実は全て人間の屍体の焼却灰だった。
右手の階段を上り切った黒い影の部分が、人間の背丈の二倍近くあると言えば、全体の巨大さが想像できよう。
様々な国籍の人々がマイダネクに収容されていた。囚人は総計50万人に及んだという。このうち全体の60%以上にあたる36万人が死亡したといわれる。その内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるという。
1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこで暮らしていた大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。
ガス殺にはチクロンBと一酸化炭素が併用されていた。1度に1914人をガス殺することが可能であった。現在このガス室は一般に公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも眺める事が出来る。
マイダネクでは銃殺による虐殺も数多く行われた。規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺だった。マイダネク収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された。
マイダネクのガス室については、1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの次のような報告がある。 「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、生存者の多くは既に他に移されていて、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度が残されているだけだった。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」(この10行余りはウイキぺディアを要約して書いた)
キコはここで亡くなった人々の魂に捧げるために
シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》
をユダヤ人の兄弟たちの前で演奏したかったのだ
王城前の貝殻状の広場は、芝生の緩やかなスロープも含めて理想的な自然の野外コンサート場になっている。
左の写真の後列に見える青い椅子席のあたり その青い椅子の後ろから眺める舞台はかなりのスケールだ
指揮者のパウがリハーサルに入った頃はまだ晴天で、Tシャツがピッタリの暖かい日差しに包まれていた。
バイオリンも、ソロでマリアを歌う彼女も、ハープも、管楽器も、みんな最後の調整に入っていた。
ルブリンやクラカウのカトリックの高位聖職者も歓談しながら開演を待っていた。
しかし、今日の主賓は何と言ってもユダヤ人のラビたちやユダヤ人社会のリーダーたちだ。右端のキコは彼らを心から迎える。
おや? この娘は一体何をしている? 大きながまぐち風のハンドバックを頭に載せて? そうです。にわか雨です!
急に頭上を黒雲が覆い、鋭い稲妻が走り、つんざくような雷鳴が轟き渡った。キコの後ろの垂れ幕も、流れ落ちる水で縞模様になった。楽屋のエンジニアは、落雷や漏電を恐れて、機材を護るために電源を切った。マイクが死んでは会衆に呼びかける手だてもない。
さあ、キコどうする?
彼は間を持たせるために、オーケストラに共同体のコミカルな元気の出る曲の演奏を命じた。
一同は楽譜の用意もなかったのに、即興でそれに応じた。
ひらめく稲妻、絶え間なく轟く雷鳴。土砂降りの雨。司教さんたちは不安顔。しかし、イタリア人の参列者は陽気なものだ。
20分経ち、30分が経っても一向に止む気配がないのに、椅子席や芝生を埋めた観客は立ち去ろうとはしない。
小1時間して、さしもの雨も弱まり、電源が戻った。キコが挨拶をし、パウがシンフォニーを演奏し始めた。
だが、演奏が始まると無情の冷たい雨脚は再び強まり濡れた衣服に吹き付ける風で体温を奪われ、震える人もいた。
シンフォニーは、クライマックスを迎え、 「シェマー・イスラエル」 《聴けイスラエルよ!》 を、
客席のユダヤ人もキリスト教徒も心を一つにして高らかに歌い上げた。
それを受けて、ユダヤ教会堂のプロの歌い手による「ホロコーストの犠牲者を悼む哀歌」が、
切々と詠唱された。
夜、ホテルの庭の特設テントの中では、ユダヤ教のラビたちや紳士淑女を招いて
キコのオーケストラのメンバーとの懇親会が開かれた。暖房が十分効いて快適な気分だった。
共同体のキコの歌の中には、ユダヤ教から借りてきたものが多数ある。
ラビたちの歌の数々を、キコの共同体はミサなどの祭儀でヘブライ語を随所に交えて日常的に歌っているのだ。
キコのメインテーブルに着くラビたちは、驚きと感激をもって、次々と繰り出される彼らの歌に聞き入っている。
やがての事に、ステージでホロコーストの哀歌を歌ったラビたちが、自ら立ってユダヤ教の歌を歌い始めた。
夜も更けて、ユダヤ人の客人たちは感激と喜びのうちに退出していった。
2000年間相互に反目し合ってきたユダヤ人とキリスト教徒が、こんなに打ち解けて仲よく交歓する景色はかつて
この地上に存在しなかった。これは、少年時代からユダヤ人を友として育ったポーランド人教皇ヨハネパウロ2世と、
それにぴったり呼吸を合わせて働いたキコの共同作業が起こした、歴史上の奇跡といえるだろう。
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/af28860920e0e8f809dab37c43c1cbdb
明日は最後の会場、ハンガリーの首都ブダペストのオペラハウスに向かう。
一旦クラカウに戻り、国境を越えて、昨日の倍ほどの行程の大強行軍が待っている。
(つづく)