:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 一部追加補足版 〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

2014-01-16 18:32:49 | ★ 教皇フランシスコ

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一部追加補足版

〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

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新枢機卿がかぶる赤い帽子

(バチカン放送) 日曜日のお告げの祈りの後、教皇フランシスコは最寄りの機会に枢機卿として任命される人のリストを発表した。以下に教皇のアナウンスの全文を掲げる:

すでに以前に知らされた通り、2月22日のペトロの椅子の祝い日に、私は枢機卿会議を招集することを喜びとする。その中で私はローマの教会と世界中の教会の深い教会的関係を代表する世界のあらゆる部分からの12の国の16名の新枢機卿を指名するだろう。その次の日(2月23日)私は新枢機卿たちとの荘厳な共同司式ミサを主司式するだろう。他方、2月20日と21日にはすべての枢機卿たちと枢機卿会議を開き、家庭のテーマについて考察するだろう。

以下が新枢機卿の名前である:(全員の名前が続くが、私は関心のある2-3の名前にコメントするにとどめる。)

ピエトロ・パロリン:アクアペンデンテの大司教(国名はないがイタリアだと思う)。ベルトーネ枢機卿の後任として教皇フランシスコが国務長官に任命した人。就任直後病気を理由にすぐに職務に着かなかったので心配したが、今は順調に教皇を補佐している。

ゲルハルト・ルードヴィッヒ・ミューラー(ドイツ):教理省長官。 

英国、スペイン、ニカラガ、カナダ、アイボリー・コースト、ブラジル、イタリア、アルゼンチン、韓国、チリー、ブルキナ・ファソ(アフリカでも最貧の小国)、フィリッピン、ハイチ、(そのほか私には国が良くわからなかった人もいて、とにかく合計16人)

詳細は1週間後にはカトリック新聞にも出るだろうから、そちらに譲るとして、今日神学校の夕食のメインテーブルの司祭たちの雑談から拾ったことも含めると、軽い話としては、ハイチの候補の事だと思うが(もし聞き違いだったらごめんなさい)、長髪でジーンズ姿の若者向けには実に恰好のいい枢機卿が生まれるとか・・・・。 

ブラジルの Orani Cyprine Lacroix リオ・デジャネイロ大司教は、先のWYDのホスト役だったが、レデンプトーリスマーテル神学院を誘致し新求道期間の道を積極的に進めている。私はキコがイスラエルのガリレア湖のドームスガリレアに司教達を招待した時、たまたま食卓を共にし、親しくなり、2012年夏にリオに招待されたが、諸般の事情で実現しなかった。

アイボリーコーストとブルキナ・ファソのアフリカの二人の新枢機卿も、何れも新求道期間の道を自分の教区に導入しており、第2バチカン公会議の教会改革路線に忠実な司教達だ。(この赤字部分は1月16日に追加補足したもの)

私が、一番注目するのは韓国のソウルの大司教になってまだ2年ほどにしかならないアンドリュー・ヨム・スジョン新枢機卿の誕生だ。実は私はこの人物をいささか知っている。(私はその前任者のキム枢機卿の形骸に触れたこともある。)

日本では東京の白柳大司教が1994年に、浜尾枢機卿が2003年に枢機卿に挙げられ、一時は信者50万人に満たないカトリック小国が、経済大国の威光を反映してか、一国2人枢機卿体制にあったが、前者が2009年に死去して以来5年間というが、高齢と病気があってそれ以前から退位同然、後者が2007年に死亡してからは7年間枢機卿のいない状態が続き今日に至っている。

一方韓国は、1969年にキム・スーハン大司教が46歳の若さで枢機卿になっているが、2008年に死去して以来6年間、枢機卿空白が続いて、日本と似た状態にあった。

折しも日本で高松の神学校の存在の是非が問題になった時、バチカンはキム枢機卿を選んで日本に派遣したが、彼は初めから同神学校の対しては反対の立場で、公平な報告は期待できなかったように聞いている。

ところが、新しいソウルの大司教は、私のブログ イエスの町カファルナウム ―アジアの教会の未来を占う―」

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b3a1349fcdb41fc3051ea6a38bb99426

でも書いたように、キコの「新求道期間の道」に対して極めて好意的で、レデンプトーリスマーテル神学院のソウル誘致についても前向きに発言をしていた。(思い出していただきたい。レデンプトーリスマーテル神学院は福者教皇ヨハネパウロ2世が世界に先駆けローマで開設した全く新しい理念に基づく神学校で,現在世界の100以上の司教区にその姉妹校が存在する。)

 教皇フランシスコが、同じような枢機卿の空白が長く続いている日韓両国に対して、新求道期間の道に好意的なヨム・スジョン大司教をわずか2年ほどで枢機卿に登用し、新求道期間の道に対して一貫して反対してきた日本のカトリック教会のベテランの司教達からは枢機卿を誰一人も選ばなかったという、際立った対応の違いに世界の消息通は注目している。

 ここからは私の全く個人的な感想だが、今回の教皇フランシスコの対応は、2010年12月13日の教皇ベネディクト16世の御前会議で「その決定は無効」を告知された《「新求道期間の道」の5年間全面禁止》の決定に同意していた全司教様たち、そして、教皇の明白な意思表示にもかかわらず、その後に自分の教区で新求道共同体の禁止をあらためて文書で確認された司教様たちに対する教皇フランシスコの最初の明白な回答として、今回の枢機卿任命に伴う日韓の明暗が分かれたと考えることは出来ないだろうか。

 バチカンから車で15分の近さに住む風見鶏としては、この3-4年の間に任命され、2010年の司教団決定に関与しなかった新しい日本の司教様の中から、ローマの方針に協調的な(つまり、新求道期間の道などに代表される新しい福音宣教のカリスマに理解を示す)勇気ある司教様が生まれたら、その人物こそ次の枢機卿任命に際して最も有力な候補になり得ると観測するのだが・・・。日本的な年功序列など、この際バチカンの気にするところではないだろう。

 ブルキナ・ファソ(面積は日本の7割、人口日本の1割強)のようなアフリカ内陸の小国からさえ、この度枢機卿が生まれた。栄光の26聖人を生んだ日本の教会に、今後さらに何年も枢機卿空白時代が続くとすれば、それは極めて異常な事態と言わざるを得ないだろう。

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★ 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》 で教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。

2014-01-16 01:06:48 | ★ 教皇フランシスコ

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 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》

教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。 

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私たちは皆、教会の中では使徒であり宣教者だ

 

バチカン市国、2014年1月15日 (VIS=バチカン情報サービス) 

  洗礼は「わたしたちをキリストの体の肢体とし神の民とする(・・・)。第二バチカン公会議の教えるところによれば、今日わたし達は洗礼が私たちを神の民に加入させ、旅する民、歴史の中を巡礼する民のメンバーにする」ことを、教皇フランシスコは「洗礼の秘跡」を主題とした水曜日の一般謁見で確認した。「事実、世代から世代へ生命(いのち)が受け継がれていくように、-と教皇は説明する-恵みは世代から世代へ洗礼の泉からの新たな誕生を通じて恵みを受け継がれ、この恵みによってキリスト教の民は、川が地をうるおすように世界に神の祝福をひろめながら時間の中を歩んでいく。」

 「弟子たちが洗礼を授けるために出かけた時から今日まで、洗礼を通して信仰の鎖が繋がっている。そして、私たち一人一人はその鎖の一つの環として、地をうるおす川のように絶えず一歩前へと進む。そのように、神の恵みも私たちの信仰も、私たちの子供たちに、赤ん坊に、彼らが大人になった時に彼らの子供たちに受け渡すことが出来るよう受け継がれていかなければならない。私たちを子の神の民に入らせ私たちに信仰を伝える洗礼も。同じように受け継がれなければならない。」

 「わたし達は洗礼の力によって福音を世界にもたらすために呼ばれた宣教する弟子となる。洗礼を受けた各人は、教会の中でどのような役割を受け持っているにしろ、またどのようなレベルの信仰教育を受けているにしろ、福音宣教の活動的主体でなければならない・・・。新しい福音宣教は、全ての人、神の民全体が新しい主役になることを意味しなければならない。それは洗礼を受けた各自が主役になるということだ。神の民は-信仰を受けたから-弟子の民であり、-信仰を受け渡すから-宣教者である。洗礼は私たちに恵みを与え信仰を受け継がせる。洗礼は私たちの中でそのように働く。私たちはみな、教会の中でいつまでも、生涯にわたって弟子であり、私たちは皆、各人が主によって与えられた場所において宣教者である。」

 「みんな、最も小さいものも、宣教者だ-と教皇は続ける-。そしてより大きいと思われるものは使徒だ。司教は何でも知っているから弟子ではないし、教皇も全てを知っているから弟子ではない、と誰かが言うかもしれない。しかしそれは違う。司教達も教皇も弟子でなければならない。なぜなら、もし弟子でないなら、善をおこなうことは出来ず、宣教者であることは出来ないし、信仰を受け渡すことも出来ないからだ。分かりますか?このことが解りましたか?大切なことです!私たちはみな弟子であり宣教者です。

 「一人で救われるものは誰もいません-と教皇は聖ペトロ広場に集まった何千、何万の人々に言った-。私たちは信仰者の共同体、私たちは神の民であり、この共同体の中で私たちは私たちに先立つ愛の体験を互いに分かち合うことの美しさを経験すると同時に、私たちの限界と罪にもかかわらず、互いに恵みを伝え合うパイプであることが求められています。共同体的拡がりは単なる《枠組み》または《輪郭》ではなく、キリスト教的生活と証しと福音宣教の総合体なのです。

  教皇フランシスコは、この神の民にとっての洗礼の重要性に関するカテケージスを終えるに際して、日本のキリスト教共同体の歴史を想起させた。この共同体は「17世紀の初めに激しい迫害を経験した。そのとき数多くの殉教者が生まれ、聖職者らは追放され、何千人もの信者が殺された。司祭は全員日本から追放され、一人も残らなかった。共同体は地下にもぐり、信仰と祈りを隠れて守った。赤ん坊が生まれると、父親か母親が洗礼を授けた。なぜなら、特別な状況の中ではすべての信者が洗礼を授けることが出来るからだ。約2世紀半、つまり250年ほど後に、宣教師たちが日本に戻った時、何千人ものキリスト教徒が発見され、教会は再び花開くことが出来た。彼らは洗礼の恵みによって生き残ることが出来たのだ!これは偉大なことだ。神の民は信仰を伝え、子供たちに洗礼を授け、こうして前進した。そして、秘密裏に強い共同体精神を保った。なぜなら、洗礼が彼らをキリストにおいて一つの体にしたからだ。彼らは孤立し隠されはしたが、かれらは常に神の民のメンバー、教会のメンバーだった。私たちはこの歴史から多くの事を学ぶことが出来る!」



(急いで訳したので生煮えの日本語でごめんなさい)


 

 

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