:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ わたし、入院しました (病院日記 ー1)

2015-07-01 06:27:43 | ★ 病院日記

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わたし、入院しました(病院日記―1)

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 東京 下落合二丁目

聖 母 病 院

 

1940年は私の生まれた翌年 上は 昭和15年の聖母病院の絵図だ

 

 植木の間に見えるのは二本の塔のひとつ よく見ると 75年前の上の絵図にすでに描かれている

この聖母病院を建てたのは 熊本の癩病院から奉仕活動をはじめた5人のフランス人の修道女たちだった

 

ドクター N、内科医長に入院を勧められて、素直に同意した。

東京の聖母病院には何かと思い出が多い。大の親友のシスター T がここの栄養士をしていた頃は、厚いステーキと極上のブランデーを目当てに、病院の厨房によく密かに通ったものだった。今は、姉 - やはりシスターの - が外国人患者の通訳として受付に座っているのも心強い。それに、チャプレンの D 神父は旧知の仲だ。心を病んだ ― 今は亡き ― 妹もしばらくここの修道院で世話になった歴史も忘れてはならない。

そのうえ、N先生の「教育入院」という言葉には、どこか牧歌的な響きがあって、まんざら悪い気がしなかった。

自分が糖尿病と知ったのは、30年も前のことだった。国際金融マンとして飽食の限りを尽くし奢り高ぶった生活に溺れていた頃のことで、知っても真面目に取り組んでいられる環境にはなかった。

その後、教区を追われて不遇な貧しい神父に転落し、辛くも野尻湖の山荘に一人蟄居していたときは、長野日赤病院の糖尿専門医の若い女医さんに「私の言うとおりにしたら、合併症を発症せずに一生を終えられることを保証するわよ」と言われて、本気で取り組んだが、彼女が、転勤する医者のご主人の後を追って名古屋に行ってしまってからは「振られた」ような気分で、ヤケになって努力をやめてしまっていた。

ローマでは、英国で看護師をしたのちに高松の神学生となったフィリッピン人のロピート君が、親身になって面倒を見てくれていた間は良かったが、彼が間もなく神父になるということで私の世話をできなくなってからは、また対応がいい加減になっていた。

昨年末、後期高齢者の仲間入りをしたのを期に、「合併症が出るならそろそろ潮時だ、明日かもしれない、来月かもしれない」と思うと、人様に迷惑をかけてまで生きていたくないという思いが急に強くなり、もう手遅れかもしれないが、ダメ元で糖尿病と初めて真剣に向き合ってみようと思ったのが今回の「教育入院」の動機だった。

さて、その朝、指定された10時に出頭し、右手首に囚人番号の入った腕輪をつけられ、二階の211号室に収監され、まっ昼間から囚人服(パジャマ姿)に着替えて、ゆっくりあたり見回した。

貧しい老司祭だから、勧められた差額ベッドの個室はお断りした。ここは4人部屋だが、先住民は一人だけだった。彼はカーテンの防壁をめぐらしてひっそりと音なしの構えだったので、つい挨拶をしそびれてしまった。

閉所恐怖症の私はと言えば、わざとカーテンをしないで、部屋の4分の3の空間を独占して心地よい巣作りに時間を費やしていた。

午後、部屋の4分の1の空間をカーテンで切り取った彼の世界に、ひとりの看護婦さん―あとでパストラルケアー室の T さんと分かった―が入って行った。カーテンの向こうの様子は見えないが、3メートルと離れていない場所での二人の会話はいやでも全部耳に入ってくる。聴くとはなしに聞いているうちに、いささか興味をそそられた。そして、話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。

(つづく)

コメント (4)
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