:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖書から見た「サイレンス」=スコセーシ監督と遠藤周作の世界=

2017-04-08 21:44:23 | ★ インカルチュレーション

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聖書から見た「サイレンス」

スコセーシ監督と遠藤周作の世界

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私のブログがカトリックの月刊誌「福音と社会」に転載され、反響がとてもよかった、と聞いて気をよくしたわけではない。もともと圧倒的に書き足りなかったので、続編を書こうと思っていたところだった。

ハリウッド映画の「サイレンス」が今の時代に世界で注目されるのは、「キリスト教を信じる立場」から「殉教」をテーマにしているからではなく、「キリスト教を信じない立場」から「棄教」をテーマにしているからだと私は思う。

遠藤周作も私と同じ12歳でカトリックの洗礼を受け、スコセッシ監督もニューヨーク生まれのシチリア系イタリア人として、少年時代にカトリックの司祭を目指したというから、二人ともある面では私と似たような成長過程を共有して今日に至ったのかもしれないが、小説家としてはそれなりの評価を得た半面、信仰をより深く生きようとした精進の印は、その後の彼らの業績からは見出せない。

宗教と神に対する姿勢についても、一般の知識人が人間的知恵と、瞑想と、修行などを通して到達しうる「自然宗教の神」以上のものは彼らの作品の中に登場しない。

人間の自然な営みの埒外に永遠の昔から存在した神の側からの無償の恵みとして与えられ、個人との関係では、自由な同意によってのみ成立するキリスト教の生きた血の通った信仰の躍動感が、彼らの作品からは特に感じられないのはそのためだろう。

たまたま縁あって少年時代にカトリックの洗礼を受けたとしても、その後信仰を深めるために精進を続けたわけでもなく、神学者でも、まして聖人でもない一人の文学者と一人の映画監督が「キリスト教の棄教」をテーマに生み出した作品は、作者の人生観と文化論的主張を反映するものではあっても、キリスト教の伝統的信仰が見落としてきた点を発見したり、より優れた解釈に光を当て得るほどのものではとうていあり得ない。

「サイレンス」の美しい映像はスコセッシ監督の真骨頂であるが、ストーリーのクライマックスの一つ、迫害下の危険な日本に潜入した若く情熱的なイエズス会士ロドリゴ神父と、イエズス会の有徳の指導者としてロドリゴたちの敬愛の的であったが、今は棄教して迫害者の側に立ったフェレイラ元イエズス会士とのやり取りは特に興味深い。

拷問に耐えかねてすでに棄教を誓っているのに、神父が棄教しない限りその苦しみと迫りくる死から解放されない哀れな信者たちを前にして、フェレイラは自らの棄教によって彼らを救うべきでないか、自分はその道を選んで棄教した、とロドリゴに迫る。一見理にかなった説得力のある言葉に聞こえないだろうか。

実は、これは、自らもキリシタンであったが、踏み絵を踏んで殉教を免れ生き延びただけでなく、キリシタンに最も恐れられる迫害者に立場を変えた井上筑後守が、信仰に燃えたキリシタン・バテレンを転ばせるために考え出した実に巧妙な仕組みなのだ。 

ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリストは沈黙を破って語りかける。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」何という誘惑に満ちた言葉だろう。しかし、これは聖書の言葉ではない。作家遠藤周作の文学的創作活動の果実だ。

このブログの読者の皆さん。あなたがロドリゴ神父の立場なら、この「沈黙しないキリスト」の言葉に説得されて、同意して踏み絵を踏むだろうか。実は、この点こそ「沈黙」が出版された当初から多くの人の心に棘のようにひっかかった核心的な部分なのだと思う。そしてまさにこの点が今、スコセッシ監督の「サイレンス」を見たヨーロッパのカトリックのインテリの心に違和感なく溶け込んでいきつつあるように思われる。

私は一編のブログの長さの都合から一旦ここで筆をおくが、次のブログではこの点を聖書の言葉と対比しながら、綿密に検討しようと思う。

つづく)

コメント (3)
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