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聖書から見た「サイレンス」―その(6)
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何かおかしくないか?映画「サイレンス」について書きながら、書けば書くほど「超自然宗教」キリスト教の「自然宗教」化、空蝉のような形骸化の歴史を跡付けることになってしまった。この先にあるのは他の自然宗教ともども、地球規模の世俗化(secularization)の波に呑まれて、日本でキリスト教が自然消滅するのを自分の目で確かめることになるのだろうか。
日本の教会は土着化のイデオロギーに麻痺して、組織的宣教の意欲をほとんど喪失してしまった。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)というイエスの命令を弟子たちは忘れてしまった。だから、今のままでは教会の宣教活動による信者の目立った増加は期待できない。
他方、日本の出生率は1家庭当たり約1.4人ということだが、カトリックの家庭も日本の平均と大差ない。ということは、カトリックの夫婦もピルを含め、あらゆる手段を駆使して盛んに避妊をしているということだ。出生率が2.07人を割り込むと、その国の人口は減少に向かう。だから、信者の数も人口に比例して減少するかと思ったらそうではない。子供に洗礼を授ける親は、ヨーロッパの信者の家庭でも急速に減ってきた。日本では、信仰は物心がついてから自由に選ばせるがいい、という一見物分かりのいい親が多い。その結果、生ぬるい信仰の親の背中を見て育った子供が、思春期を超えて信仰を受け継ぐ可能性は極めて低い。つまり、生物学的には信者の子は一家庭1.4人だとしても、信仰の再生産は限りなくゼロに近いということになる。つまり、今いる信者が高齢化して死に絶えたらそれでカトリック教会は終わりということか。
私はそんな希望の無い宗教の終焉を見届けるために、妻子も持たず、富も地位も名誉も求めず、ひたすらみすぼらしい貧乏神父の道を選んだのかと思うと情けない。華やかな国際金融マンの生活をそのまま続け、安泰な老後を送った方がはるかにましではなかったろうか。
どこかで道を間違えたに違いない。それは、遠藤が「沈黙」を書くときに選んだ手法、キリスト教を聖書に依拠することなく、小説家の思惟のままに自由に作り替えていった結果に違いない。
それなのに、聖書に依拠しない遠藤イデオロギーには奇妙な誘惑的魅力があった。それにカトリックのインテリ、聖職者の多くが虜になった。それを土台にしたスコセッシの「サイレンス」は、同じ魅力でヨーロッパの現代のカトリックインテリ、聖職者を引き寄せようとしている。その媚薬の毒素は何処に潜んでいるのか。それを解き明かすには、遠藤が捨てた聖書を再び取り上げる必要があるだろう。
新約聖書の中に現れる最初の殉教者は事実上ナザレのイエスその人だった。彼は十字架の上で壮絶な最後を遂げる前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと書かれている(マタイ27章46節)。これが遠藤の「沈黙」という題の本来の典拠だろう。イエスの天の父なる神が、イエスの殉教の場面で沈黙を通されたのであれば、彼の後の続いた殉教者の場合にも一貫して沈黙されるはずではないか。
だとすれば、踏み絵を前にしたロドリゴに「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」という言葉は誰の口から出たものか。聖書的には神の口からではあり得ない。前にも言ったが、それは神の口に嘘を語らせるもの、偽りの父、堕落した天使以外に考えられない。つまり、身も蓋もない言い方をすれば「悪魔」の囁きだ。
「サイレンス」では転ぶのは人間の弱さの結果で、神は、その弱さに同情すると描かれる。聖書ではどうか。イエスは受難の前夜、今夜、あなたがたは私につまずく。と言われると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。(マタイ26章31節以下)また、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とも言った。それに対して、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と予言した。(マタイ26節31節以下)その夜、ペトロは公衆の面前で、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。そして外に出て激しく泣いた。(マタイ26章74-75節)
相前後して、12使徒の一人ユダはイエスをユダヤ教の祭司長や長老たちに密告して銀貨30枚で売り渡した。すぐに後悔したが祭司たちに取り合ってもらえず、絶望して首を括って死んだ。イタリアのアッシジには聖フランシスコの大聖堂がある。三層の聖堂の二層目の壁の目立たない薄暗がりに、ユダの首を吊った場面がフレスコ画として残っている。よく見ると腹が割け、腸があふれて垂れ下がっている。思わず目をそむけたくなるような何とも陰惨な絵だ。
ペトロの裏切りとユダの裏切りとどちらが大きいかを論ずるのはあまり意味がない。ただ、ペトロは後悔し赦されて、後に教会の頭となり最後は立派に殉教を遂げた。ユダは絶望して自殺して、弟子の仲間に戻ることはなかった。「サイレンス」の吉次郎は、何度も転び、何度も懺悔し、かといって最後まで殉教はしなかった。「沈黙」は実に中途半端な人間として彼を描いている。それに対して、井上筑後守や、フェレイラや、ロドリゴは心弱くもころんだ事実をイエスに対する裏切りとして認めることをプライドが許さず、踏み絵のキリストが「踏むがよい」と言ってくれたから、と自分に言い聞かせて正当化し、神の憐みと赦しを求めることを拒み、ユダのように自殺するならまだしも、確信犯として迫害者の手先となって、信者が殉教の道に進むのを妨げ、彼らを自分と同じように転ばせるために執念を燃やすという、まさに最悪の道を選んだ。
迫害の時代、多くの人が殉教の血を流したが、その一方で、実に多くの人が転んで教えを捨てただろう。転んだ人に神の憐みの手が及ばなかったと断言する権利は誰にもない。神の憐みは限りがないからだ。ただ、殉教は無駄死にで、転ぶことこそ神の勧めであったかのごとき「沈黙」や「サイレンス」の描き方は、悪魔的なすり替えであることがはっきり理解されれば十分だと私は思う。
キリストの十字架の場面では―イエスは神の力を帯びたメシアではないかという期待感を背景としての話だが―「そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15章29-32節)とある。
イエスのメシアとしての使命は、悪魔の声に耳を傾けて、「不従順」によって命の与え主である神から離れ、その結果死を招き寄せてしまった人祖の罪を、ご自分の父なる神のみ旨に対する十字架上の死に至るまでの「従順」によって贖い、死を打倒して私たちに復活の命を取り戻して下さることだった。そのイエスの贖罪の業がまさに成し遂げられようとしている瞬間を狙って、「それをやめるなら信じてやろう」というのは、これもまた悪魔の嘘の囁き以外の何物でもない。
遠藤の「沈黙」もスコセッシの「サイレンス」も、人間の心理の微妙な揺らぎに付け込んで、聖書の中の悪魔の嘘の囁きを、あたかも真理の新しい解釈であるかのごとくに描き出している。どれだけ多くの人が、インカルチュレーションのまやかしのイデオロギーに惑わされたことか。「沈黙」は日本の教会を骨抜きにすることに成功した。いま「サイレンス」がキリスト教的ヨーロッパを同じ道に導こうとしているのではないかと恐れる。
映画の中では、井上筑後守は一見温厚な好々爺のように描かれているが、その魂には冷たい反キリストの炎が燃えている。インタビューに応じるスコセッシの監督も、小さな柔和な叔父さんのように見受けられるが、「サイレンス」を描く姿勢には確信犯の明確な意思が秘められているように思えてならない。
(つづく)