:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ はねていく小娘

2019-03-01 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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はねていく小娘

ヘルマン・ホイヴェルス

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ヘルマン・ホイヴェルス師の思い出に戻りましょう。1950年代、60年代は、日本のカトリック教会が最も輝いていた時代ではなかったと私は追想します。下の集合写真には、貴重な師の署名と、自筆で記された日付が見られます。場所は昔の聖イグナチオ教会前の広場でした。

私は、師の左側の黒い手提げを持った和服のご婦人のうしろに一つ頭が飛び出した若者です。当時25歳、この写真に写っている人たちは、もうおそらく全員他界されていることでしょう。

この写真の5年前に刊行された師の「時間の流れに」と言う単行本には、次のような短編が載っていました。ゆっくり味わってください。

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 はねてゆく小娘

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都会の屋根の上は春の空です。朝六時、夜の雨で清らかに洗われた小路を、私は歩いてゆきました。

向こうから一人の小娘が飛んできます。一足一足飛び上がり、ぴょんぴょんはねはねくるのです。飛び上がるごとに、髪の毛も、左右にさしのべた可愛い手も、春風のなかに快げに、ふり動いています。ほんとに巣立ったばかりの小鳥のよう――黒い髪、明るい顔、生き生きした真顔で飛んでくるのです。

五歩ばかり近づいたとき、小娘は急に私を見つめました。と、子供の顔に美しい朝のほおえみが浮かびました。はねながらのご挨拶です。とても愛らしくひらひらする頭をさげて、はねながら通り過ぎました。

私も急いでお辞儀をしてほおえみました。このお辞儀もほおえみも子供が受けとっていけるように――すると心の中に、四方山の望みが湧き出てきて、これも急いで子供の方におくるのでした。幸福に暮らしなさい! 私のこの望みを受けとって、子供は嬉しげに道を飛んでいきました。足音も、ずっと元気になって――。私も前より嬉しくなり、朝のさなかに歩んでいくのでありました。

とびはねなさい、ほおえみなさい、小さい者よ。お前が挨拶してほおえんだことを感謝します。また私のほおえみも挨拶もいっしょに受けとってくれたのは有難いことです。お前は私を知らない。私もお前を知らないのに。また知らない人には挨拶する習慣もないのでしょう。いま私は自分が悪い人でないことがわかりましたよ。なぜなら、お前が先に笑いかけたのですから。で、私は心の底からお前の上に望みをかけています。

ほおえみなさい、とび上がりなさい、いつまでも。

お父さんとお母さんを喜ばせてあげなさい。また年がたつにつれてお前の歩き方が重々しくなっても、心の喜びは減らないように。今快く髪の毛をふり上げる頭を、人生の軛(くびき)の下にかがめなければならない時、今春風の中に、あんなに自由にはばたいているその手がたくさんの退屈な仕事でいっぱいで、他人から受けとるより他人にたくさん与えねばならない時に、足もまた毎日の生活のたまらない用事のために走り回らねばならない時にでも――それもやはりしかたのないことですが――その時に、なつかしい創造主 der liebe Gott が、お前に豊かなみ光りを下さるように。それによってお前の子供の中の一人が十歳ともなれば、今朝ほどお前がしていた通り、はねたり、ほおえんだりするように!

 

俳句のように短いこの一編の随筆。私は、まず第一にその日本語の美しさに感動します。これが成人してから日本に移り住んだドイツ人の文章かとおもうと、私は唸ってしまいます。日本人の私もこの年まで無数の文章を書いてきました。しかし、日本語としてこれほどの研ぎすまされた簡潔さ、美しさ、優しさ、暖かさ、ふくらみ、深さに満ちた―ひとことで言えば、愛を感じる―文章の境地にはとてもとどいていません。

ホイヴェルス師は、自然を、動物を、子供を、人間をあたたかい愛の眼差しで見つめ、あらゆる存在の本質を究め、それらの深い意味を総合的、統一的にとらえる「哲学するこころ」を持っておられました。かれは「哲学することの楽しみ」を知っている真の「哲学者」でした。

かれは、まことの「哲学者」と「教壇の哲学の先生」とをはっきりと区別しておられました。哲学者が人間の理性の力で、物事の根本原理を探求するものであるとすれば、哲学の先生・教授は歴史に登場した著名な哲学者の教説を人よりも詳しく知っていて、それを人に説き聞かせることを職業とする人のことであり、その人自身は哲学者であるとは限りません。大学の哲学科の教授たちは、たいがいは、哲学史を講釈する歴史の先生にすぎません。哲学の教授は世に五万といるが、本物の哲学者はごく稀にしかいないのです。

師は私に哲学することの喜びを伝授してくださいましたが、哲学の先生になることはお薦めになりませんでした。ホイヴェルス師は教会、すなわち「ペトロの船」の行く末を深く洞察しておられ、わたしにも行くべき方向を示し、教会の進むべき方向を察知する感性を授けて下さったと思っています。わたしが今日このような司祭になったのは、ひとえに師の薫陶のおかげだったとしみじみ有難く思っています。

(つづく)

コメント (2)
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