:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第16信 ローマ教皇がやってきた PART-3

2021-02-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ー インドの旅から ー

第16信 ローマの教皇がやってきた

PART-3 :2019年・日本)

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 PART―2 で止めておくのが無難だと言うことはよくわかっている。しかし、その後の反響を見るうちに、やはりもう一歩踏み込んで PART―3 を書くべきだと思うようになった。それほど今回のフランシスコ教皇の訪日が残した問題の根は深いと言うことだ。

 私はこの1年余りの間、いろいろ考え、またいろんな人と対話し、いろいろな声を聞いた。まず、直接ブログに戴いたコメントから始めよう。

Unknown (M.G.)

神父様
 ありがとうございます。私もあの日ドームにいて同じようなことを感じていました。正直なところ、教皇を直接見たという以外には何の感動もありませんでした。でも、東京ドームは大成功だったと自画自賛して悦に入ってる人が多い中、天邪鬼(あまのじゃく)に思われるのもいやなんで、聞かれれば「よかったです感動しました!」みたいに答えてました。ですので、こうして神父様が「真実」を語ってくださったのは大変ありがたいことです。

Unknown (一読者)

 最新の神父様のブログ拝読させて頂きました。一昨年の教皇様の東京ドームのごミサの件、よくぞあそこまでバッサリと電通を糾弾して下さり痛快です。ごミサ出席がかなわなかった多くの信者の方々は何かもやもやした気分を抱えていらしたと存じます。そのもやもやの原因を神父様がはっきり示してくださった良かったです。
遥か半世紀前のインド、ムンバイでの教皇様の世界聖体のごミサ出席は世界広しと言えども、日本人では神父様只お一方。その神父様がムンバイでのごミサと一昨年の東京ドームでのごミサを対比してお書きになったのは、とても迫力がおありになりました。お若い時代の神父様の貴重なご経験が長い年月を経て今回のブログに結実したのは、ある意味とても有意義と存じます。
(一読者)

ブログへの直接コメント以外にも、メールや SMS などで、いろいろな反響があった。たとえば、

谷口神父様

2回目のブログを拝読して…、思ったことは、フランチェスコ教皇の来日の希望は、長崎、広島の司教だけ「元々日本の多くの司教は、教皇を招きたくなかった」と言うことだと思います。

前回の聖ヨハネ・パウロ2世の時には、司教団を代表して「カトリック中央協議会」が主催したので、信徒は無料だったし、正常な歓迎…。

問題は、フランチェスコ教皇を歓迎しない<日本司教団の劣化…>だと思います。どうして、そんなにひどくなってしまったのか?

(K.O.)

また、

谷口神父様

お久しぶりにメール致します。PART-2 は息もつかずに(ちょいとオーヴァーだが)読みました。

さて、私達は素直に、抽選を申し込み、待っていました。もちろん外れました。

やはり、各教会の世話人(教会によって名前は違うようですが)クラスの人は当選したようです。私の親友は、娘さんがシスターになるくらいで、本人もイグナチオの聖体奉仕者なので、当選して、夫婦と次男が参列できたと、素直に喜んでいました。

今回の、谷口神父様の、解説を読んでさもありなんと、思いました。

ちょっと考えれば、日本の信徒数を、40万人としましょう。

うちの教会でも、名簿上の信徒は2500人以上いるらしい。主日の御ミサに来るのは、一番多い、10:30の御ミサでも、ベンチ席、10列×2(左右)×6人=120人+左右の臨時椅子席約20人+聖歌隊約20人+案内者他10人=160人です。ほぼ満員でした。

他に、夕方のミサも含めて3回ありますが、それを合わせても、250人(10%)で精一杯です。

その割合で行くと、日本中で40万人×0.1=4万人が主日の御ミサに出て来るのが精一杯でしょう。その中で、関東地区に限れば、東京ドームミサに出られる人は、何人くらいでしょうか?

但し韓国人ミサは、関口だけでしょうが、満員になるようですから、彼等が来れば、だいぶ増えます。イグナチオの英語ミサは、ほぼ満員でした(一回行った経験)。

日本の司教協議会は最後まで、消極的でした。殆ど、最後まで、少なくとも東京教区からは、我々に何のPRもなく、全く準備への協力要請(協力指示があっても不思議はないのに!)はありませんでした。むしろ、長崎の原爆関連の事が話題になるくらいでした。私達の教会でも、長崎行きの切符を買って、向こうで参列した人が居られました。感激していました。

それが、神父様の“電通関与”と言う情報で、全てが判りました。“人間万事金の世の中”と言われますが、確かにそうです。電通は、儲かると、踏んだのでしょう。電通に文句を言うべきではないかも知れません。電通が、世の中の事を知らない純真なシスターを騙すとしたら、非難されるでしょう。しかし、教皇様来日が嬉しくない(!?)司教協議会が、“これ幸い”と乗ったと考えれば、全てが理解できました。素晴らしい、情報、それの分析、有難うございました。

私の教会では、250人はいる御聖堂に、20人しか入れません。後は信徒会館のホールに20席です。それを、土曜日から日曜日にかけて、6回やってくれるのですから、関口が日曜日の昼ミサをやめてしまうのとは大違いで感謝しています。それにしても、窓は開けっぱなしなので、ズボン下は二重にはき、ホカロンを二個持って、明日も行く予定です。司祭もマスクをつけてやるし、信徒は、歌を歌わないばかりか、今度の二度目の非常事態宣言で、主の祈り迄、声を出してはいけないことになりました。それでも、明日も、2時間近くかけて、出掛けるつもりです。

長い、とりとめもない文章にお付き合いくださって、有難うございました。くれぐれもご自愛専一の程をお祈りいたします。

(M.O.)

また、プロテスタントの信者さんからは、

谷口神父様

 いつものように前回のブログは大変に力のこもったものでしたから最後まで読ませて頂きました。

 お伝えしたようにあの東京ドームでのフランシスコ教皇様のミサには、クリスチャンでない甥っ子が、お得意先からの招待で参加し、詳細を知らせてくれました。

 今回のオリンピックでも、またGo Toキャンペーンでも、コロナ対策のあれこれまで、電通が関与しては、中抜きをして人々の税金を掠め取っていることに、腹を立てています。

 電通関係者から、戦後大本営の生き残りが創設した会社なので人々の心をコントロールするのが上手なので、(人心を惑わすことに長けている)気をつけるようにと聞いたことがあります。

(C.M.)

そのほか、

神父様

神父様も書いていらっしゃいますが、私の印象に残ったのは、現今の日本のカトリック教会が教皇様ご来日のプログラムに何の力も発揮できず電通に丸投げした情けない姿です。教皇様ご来日は直前に決まったことではありません。私もずっと所属教会に通っておりましたが、教皇様ご来日の話は信者に対して公の席で直前まで話題に出たことはございません。その話題は教会の割り当ては40名、後は自分でインターネットで申し込めという冷たいものでした。今回のご来日も本当は日本の人口からすると数少ないカトリック信者の草の根運動のように信者の手でやるべきだったと思います。ご来日の費用は今はやりのクラウドフアンデングで信者ばかりか日本国民に広く呼び掛けて集めることもできたはずです。そういうことをしないのは、今の日本カトリック教会の秘密主義が災いしていると思います。新聞で大きく報道されておりましたが、長崎教区の一神父様が個人信者に何億円かを融資して焦げ付いているという話があります。多くの信者が今の日本のカトリック教会についてゆけないと離れていく人が多いです。私の周りの友人もそうです。いずれにしても今回の神父様のブログが日本のカトリック教会に大いなる反省を促す一石になることを希望しますが、それは残念ながら希望はもてないと憂慮いたします。

長くなりました。お許しくださいませ。(T.S.)

とか、

谷口神父様

ブログ・大変興味深く拝読・・・私は、とても参加できる状況ではない・・・主人が歩行障害者・義母が高齢のため、週に5日、義母宅に通う日々・・・経済的にも余裕はなく・・・最初からあきらめていました・・・裏にそのようなカラクリ(電通が働いていた)があったとは・・・!!!私の教会の友人にも、参加できた方・落選し与れなかった方、悲喜こもごもでしたが・・・

(K.T.)

とか、

神父様

いつも詳しいお便りをありがとうございます。私にとって、とても知りえない内容を読ませて頂きました。深い感動をありがとうございました。(T.Y.)

* * * * *

さらに、私はこの一年あまりの間に、教区司祭、修道会の司祭を問わず、いろいろな司祭たちの声もきいた。その中の主な証言を要約してみよう。

(A 神父)

「少なくとも私の小教区ではあのイベントはその後多くは語られていません。むしろ、しこりのようになったとも感じています。正直、教皇来日そのものがばかばかしいイベントでした。お膳立てされた通りのシナリオを披露して終わり・・・。その後に何を日本の教会はやったか、やれたか・・・はなはだ疑問です。」

(B神父)

 「私の尊敬する先輩の司祭なぞは最初っから、くだらないイベントだと言って見向きもしなかったのを覚えています。私も直前まで行く気はしていませんでしたが・・・結果、行ったと言う状況です。ほんとうにバチカンは何を考えているのかと言いたいです。」

私が特に関心を抱いたのは、ドームを埋めた群衆の「ご聖体」の拝領についての証言だった。じっさいに「ご聖体」を配る奉仕に参加した司祭たちの証言に共通した特徴をあげるとすれば、

 「東京ドームのミサに来ていた人の多くは未信者か信者でも教会には長く行っていない人たちだったと現場で聖体を配った人間として証言できる、と言う点です。」私はこの現場に立った司祭のメールの「証言」を重視している。それは、以下の証言とも符合し、一貫しているからだ。

 「スタンドやフィールドのゾーンにもよるかもしれないが、実際、聖体を拝領した人の数はそこそこ多かったのは確かだったようだ。しかし来る人の多く、半分くらいは関係ない顔をしていたか、拝領の仕方さえ分かっていなかった。」

 「多くは単に物見遊山、あるいはカトリック学校の関係者、あるいは観光会社に経費をはらって前売り券をもって参加できたということであり、多くの信者さんは参加したくてもできなかったという事実が奇しくも浮かび上がった。」

ユーチューブで確認すると、聖体拝領に費やされた時間は10分32秒前後だ。聖体拝領に先立つ<主の祈り>の頃には聖体奉仕の司祭たちがスタンドやフィールドに散ってスタンドバイしていたからこの10分余りの間に手際よく「ご聖体」が配られただろう。私の非常に大まかな計算では、一人の司祭が1分に10人から15人に聖体を授けたとして、司祭が仮に200人いたら、10分間で5万人の観衆のうちの2万人から3万人に配り終えることが出来た計算になる。しかし、実際にはぬかりない電通の緻密なシュミレーションによって、それ以上の拝領者にも対応できる何らかのもっと余裕のある手配をしていたに違いない。

 

 私は、国際金融業をやめて、神父になるために50歳からローマのグレゴリアーナ大学で神学の勉強をした。そして、カトリックのオーソドックスな秘跡論も学んだ。16世紀にプロテスタント改革が起こって以来、カトリックの教会は「聖体の秘跡」について厳格な解釈を堅持してきた。

 それは、叙階の秘跡を受けて司祭職に挙げられた神父が、ミサの中で典礼文通りにパンとぶどう酒を聖別すると、見た目には全く変わらなくても、そのパンは実体的に変化してキリストの肉と血になり、そこに神の子キリストが秘跡的に現存すると言う教えである。

 従って、聖別されたパンは「ご聖体」と呼ばれて尊ばれ、その事を信じる洗礼を受けたカトリック信者にのみ拝領が許されることになっている。カトリック教会の聖堂やチャペルでは、「ご聖体」は聖櫃と呼ばれる特別な鍵のかかった場所に保管され、その傍らには聖櫃の中に「ご聖体」が安置されていることを示す赤いランプが点される。信者は聖体訪問と称して、聖堂に安置されている「ご聖体」の前に跪いて秘跡的に現存されるイエス・キリストを礼拝し、賛美し、祈りを捧げることが勧められている。中には、「ご聖体」を金の顕示台に掲げ聖櫃の外に安置し、24時間365日、交代で礼拝する女子修道会もあるほどだ。

 このことと関連する一つの具体的な例をあげよう。

 何年か前から私は夏から秋にかけて、信州の北のはし、野尻湖のほとりの小さな家で少しの時間を過ごしている。そこは、NLA(Nojiri Lake Association)ー通称「国際村」ーと呼ばれていて、ちょうど100年前に、日本にキリスト教を伝えるために欧米からやってきて、札幌から阿蘇山の麓まで全国に展開して伝道に励んでいるブロテスタントの様々な教派の牧師家族が、年に一度、夏に休暇を楽しみ交流を深めるために、野尻湖畔に拓いた村だった。

 私はその村に住む唯一のカトリックの司祭だ。

ところで、NLAのオフィシャルシーズン中は日曜日ごとに多教派合同の礼拝がおこなわれ、いつも複数の教派の牧師が協力して司式する習慣になっている。私も、同じ村の住民の司祭として司式に招かれるが、いつも曖昧な返事をして辞退している。なぜか?

それは、合同礼拝の式次第が、聖公会の強い影響のもと、カトリックの典礼と酷似している部分があるから、私が付き合いよく招きに応えて共同司式をすれば、その日の礼拝のパンはカトリックの司祭である私の参加によって「ご聖体」となり、実体変化が生じて秘跡的にキリストの肉となり、イエス・キリストがそのパンに現存することになる。

無論、居並ぶ牧師さんたちや信者さんたちはプロテスタントの神学に基づくからそれを信じるわけではないが、一つだけ面倒な問題が残る。それは、NLAのメンバーの中に少数ながらカトリックの信者も混ざっていることだ。神父は私一人だが、その信者たちは私がカトリックの神父であることを知っている。そして、私が聖別した「ご聖体」を、秘跡を信じないプロテスタンドの信者さんたちに授けることは、カトリックの神学的には許されない不法行為であることも知っている。だから、もしそれが東京の大司教館にでも常習確信犯として垂れ込まれたら、私は最悪聖職停止の処分を受けても文句を言えないほどの不法行為を行ったことになる。だから、私はNLAの合同礼拝の共同司式の招きを丁重に断っているのだ。

 ところで、教皇訪日のハイライトの東京ドームでの教皇ミサでは何が起こったか。

 イエスの12使徒の頭、聖ペトロの後継者、<神の代理人>とも呼ばれるローマ教皇フランシスコ自身が司式するミサにおいて、教皇が聖別した無数の薄い小さな「ご聖体」が、百人単位のカトリック司祭の手によって手際よく5万人の群衆に対して配られた。

上のB神父の貴重な証言によれば、「ご聖体」を拝領した人の半数はカトリック信者でもなく、洗礼を受けたプロテスタントのクリスチャンでもなく、「ご聖体」の意味も分からず、拝領の作法も知らない異教徒に配られたと思われる。その事実にとっさに気が付いた司祭たちは、一体どう対処しただろうか。

聖体拝領の作法も何も知らぬ疑わしい人に、いちいち「あなたは洗礼を受けていますか?」、「あなたはカトリック信者ですか?」と聞いて確認をとり、「はい」と答えなかった人には、「あなたにはあげられません」と言って一々断っていたらどうなっただろう。会場の大混乱は避けられなかったに違いない。だから彼らは、不本意にも、とっさの判断として、相手が「ご聖体」を受ける資格のない人であることを知りながら、トータルでは恐らく数千、もしかしたら万を超える数の非カトリック信者に「ご聖体」を与えざるを得ないる羽目になってしまった。これはカトリックの世界では大スキャンダルでなくて何だろう。

あろうことか、この不祥事は教会の頭、ローマ教皇の面前で、教皇司式のミサの最中に、公然と起こったのだ。

この事件の責任はどうなるのだろう。NLAの合同礼拝で、「ご聖体」に対する信仰ゆえに襟を正して共同司式を辞退する私が、もし礼拝に参加したプロテスタントの信者さんに「ご聖体」を配った場合は教会当局から厳しい制裁を受ける恐れがあったのに、教皇の面前で、配下の数百人の司祭を使って、ひょっとして1万人を超えるほどの数の非キリスト者に「ご聖体」が配られることを赦したことは、聞くに堪えない酷い話だ。そのことは、十分予見できたのに、回避する手を打たず、放置した責任はどうなるのか。誰がとるのか。私は空恐ろしくなる。

平時に人をひとり殺せば殺人罪に問われるが、戦場で非戦闘員の女・こどもを何百人も殺しても咎められず、うっかりすれば英雄扱いの勲章ものだ。一人の未信者に故意に「ご聖体」を与えたらその神父は咎めら罰せられるのに、1万人なら教皇ミサのショーを盛り上げた大英断として不問に付されるのか。

コロナ自粛を人々に強いる政治家が、夜の銀座で飲食の梯子をしても牢屋に入ることはない。男女平等のスポーツの祭典オリンピックの責任のトップが、露骨な女性差別の言葉を吐いて、全世界から辞めろ辞めろの大合唱を受けても、薄笑いを浮かべながら<反省と謝罪>の空々しい一言で逃げ切ろうとするのは、老醜と言うか、犯罪とさえ言うべきか。

教皇の面前で「ご聖体」を大勢の司祭を使って未信者たちに大量にばらまいた信仰上の、また教義上の違反行為の責任を(それは数の問題ではない、一万人でなくたとえ千人であっても)、神様の前に、そして、まだ「ご聖体」に対する正統信仰を保っている善良なカトリック信者たちの前に、どう釈明するつもりか。知らん顔で闇に葬られて済む問題ではないだろう。

「電通には一応注意するようにと言ってありました」の一言で言い逃れは出来ない。電通は、はなからカトリックの教義には何の関心もない。あるのはイベントの興行収益だけだろう。そういう電通と手を組んだからには、当然予見できたことを未然に防がなかった責任は重い。知りながら放置し容認したのであれば未必の故意というべきではないか。

中世の教会は堕落していたと言う歴史の見方がある。中世の終末期にペスト(黒死病)が蔓延し、ヨーロッパの人口が激減した。住民の過半、三分の二が死んだ都市もあった。全員死滅し地図から消滅した町や村もたくさんあった。ようやくペストが終息したのと期を一にして、プロテスタント宗教改革が起こった。結果、カトリックはヨーロッパの地域の半分と信徒の半数を失った。

今コロナが全世界に蔓延している。すでに億の単位の人類が感染し、数百万人が死んだ。それがどこまで増え続けるのか、まだ終息の兆しは見えていない。あと1年かかるか、それ以上続くかも予断を許さない。

日本のカトリックの名目信者を40万人として、実際にはその4人に1人しか教会に来ていないとすれば (これは非常に楽観的な観測で、上の M.O. さんは自分の小教区の現実から10%と算出している)、信仰を守っているのはわずか10万人(M.O. さんの計算ではたった4万人)しかいないことになる。その信者たちに、教会はいまコロナを理由に率先してミサへの参加を制限している。その結果、多くの信者が、特に高齢者が、毎週日曜のミサに教会に入れてもらえていない。このまま2年、3年にわたり教会のミサに与からないことが信者の日常として定着したら、コロナが去った後も信者はもう以前のように教会に戻っては来ないに違いない。

カトリック教会の責任者が、「ご聖体」の秘跡に対する教えを公然と踏みにじった後で、どのようにして信者の信頼を回復し、どんな顔をして「ともに生きた信仰を守りつつ教会を盛り上げて行こう」と言うつもりなのだろうか。

中世末期のペストの後にプロテスタント改革が起こったように、コロナの後に日本のカトリック教会の中で大きな地滑り現象が起きて、構造的変化を余儀なくされるのは目に見えている。もしかしたら、世界中のカトリック教会全体が大きな改革の必要に迫られるのかもしれない。

半世紀以上前に行われたカトリック教会の大改革ー第2バチカン公会議ーは、未だ日本に届いていないと言われるが、その到達を待たずに、世界の教会はすでに 第3バチカン公会議」 を必要としているのではないかと思う。

コメント
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