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ベネディクト16世教皇と新求道期間の道との深いつながり
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昨年の大みそかにベネディクト16世名誉教皇が逝去してからも、時は休みなく流れていく。2005年に聖教皇ヨハネパウロ2世が逝去された後を受けて教皇に選ばれたヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、2013年に生前退位した。ローマ教皇の生前退位は、約2000年265代の教皇の歴史の中で719年ぶり、史上二人目となった。
以来、保守派の引退教皇と革新派の現教皇フランシスコと相反する姿勢の二人の教皇の並立時代などと、時にはまるで二人が相容れない立場にあるかのように言われることもあったが、二人の間には共通のゆるぎない一致点も見られた。それは、ほかならぬ第2バチカン公会議という教会の歴史的大改革路線に対する忠実さだった。
その一貫した共通点の具体的表れが、「新求道期間の道」に対するゆるぎない支持と温かい保護の姿勢だ。しかも、それは直近二代の教皇だけに限られたものではない。1965年に自らの手で第2バチカン公会議を閉会にまで導いた教皇パウロ6世から、現教皇フランシスコまで5代の教皇たちが、全くブレることなく「新求道期間の道」を手厚く保護し、それを全世界のカトリック信徒に対して力強く推奨してきたことは特筆に値する。
キコを謁見する教皇パウロ6世
例えば、教皇パウロ6世は、1974年5月8日の新求道共同体のメンバーに対する最初の謁見のとき、次のような言葉で挨拶をおくられた:
「これこそ第2バチカン公会議の果実です・・・あなたたちは、初代教会が洗礼の前にしたことを、洗礼の後にしています。前か、後か、それは二義的なことです。大切なのは、あなたたちが本物のキリスト教的生活、その完全さ、一貫性、を目指しているということです。これこそ最大の功績です。繰り返し言いますが、これはわたしを非常に慰めてくれます・・・」
同じ教皇は、また別の謁見の機会に、新求道共同体の創始者のキコに対して、「謙遜で教会に忠実でありなさい、そうすれば教会もあなたに忠実であるでしょう!」と言われた。
在位30日で不審の死を遂げた教皇ヨハネパウロ1世も個人謁見でキコを愛をこめて迎えた
公会議を開いた教皇ヨハネス23世と、公会議を閉じた教皇パウロ6世の二人の名前をとって、ダブルネームの「ヨハネ・パウロ1世」を名乗ったヴェニスの総大司教は、教皇として第2バチカン公会議の改革を早速実行に移すべく、着任早々バチカン内部の大幅な人事異動の名簿を発表しようとしたその前夜に、バチカン宮殿の寝室で不審死を遂げた。在位はわずか30日だった。毒殺の噂が絶えない謎の死だった。教皇に選ばれる前のアルビノ・ルチアー二総大司教は、新求道共同体の創始者のキコとカルメンとマリオ神父に、ご自分のヴェニスの大司教区内で新求道期間の道を始め広める許可を与え、大いなる愛情をこめて彼らを受け入れられた。
短命に終わった悲劇の教皇の後を襲ったのが、ポーランド人のカルロ・ヴォイティワ枢機卿・大司教だった。中世以来、教皇の座がほとんどイタリア人で占められてきた伝統の終わりだった。第2バチカン公会議の指導的教父の一人として頭角を現した若いヴォイティワは、前任者と同じダブルネーム、ヨハネ・パウロ2世を名乗り、前任者の路線を引き継ぎ、慎重に、賢明に公会議の改革を実行に移し、長い在位中を通して最高牧者として教会を導いた。
そのヨハネ・パウロ2世教皇は今は聖人の位に挙げられているが、生前ローマの「カナダの殉教者教会」の11の共同体のメンバーを訪問したとき「正しく理解したとすれば、あなたたちの『道』は本質的に次のとおりである:すなわち、洗礼の神秘を発見し、その意味するところを余すところなく見出し、こうしてキリスト者であることが何を意味するかを理解すること」であると言われた。
カナダの聖殉教者教会。聖教皇ヨハネパウロ2世の前でギターを弾きながら歌うキコ
キコを優しく引き寄せる教皇。
「道」のミサのやりかたが、バチカンの「典礼聖省による正式承認」(1988年12月19日)を受けたとき、聖教皇ヨハネパウロ2世は全世界に向けて最初の100組の宣教家族を派遣し、感謝の祭儀(ミサ)を司式された。この承認文書によって、以後、道の参加者は常に種無しパンとぶどう酒を用いる両形色で聖体を拝領し、平和のあいさつは共同祈願の直後に行うことができるようになった。」
教会が正式に承認した新求道共同体のミサのやり方に沿って、共同体の姉妹が手で焼いた種無しパン(聖体)でミサを捧げる聖教皇ヨハネパウロ2世。
ガリレア湖を背に幸いの丘にキコが建てたドームスガリレア
2000年、キリスト降誕第2千年紀の最後の年に、聖教皇ヨハネパウロ2世はイスラエルのガリレア湖のほとりの「幸いの丘」(ベアティトゥディネ)で世界青年大会を開かれ、私も参加した。そして、その丘にキコが建てたドームスガリレアという巨大なコンヴェンション施設の新築オープニングを祝うため、教皇は建物の祝別のために訪れられた。
ドームスガリレアのオープニングの祝福に訪れた聖教皇ヨハネパウロ2世
前置きがすっかり長くなってしまったが、昨年大みそかに帰天した引退教皇ベネディクト16世も、パウロ6世以降の3代の教皇たちの路線から一歩も逸れず、新求道共同体を圧倒的に支持し、保護された。その証左が次の写真だ。
本題の故ベネディクト16世に話を戻そう。
個人謁見で親しくキコと語り合うベネディクト16世教皇
新求道期間の道の40周年を記念して、教皇ベネディクト16世は、聖ペトロ大聖堂を埋め尽くした共同体のメンバーを前にして、挨拶を送られた。写真は道の創始者のキコに感謝とねぎらいの言葉を述べられる教皇。
高松にあったレデンプトーリス・マーテル神学院出身で、ローマのグレゴリアーナ大学では私の後輩の田中裕人神学生を聖ペトロ大聖堂で司祭に叙階したのも、教皇ベネディクト16世だった。田中新司祭は教皇から直接司祭に叙階された唯一の日本人ではないかと思う。
自分の存命中に「新求道期間の道」に教会法上の堅固な位置づけを与えるために必要だからと、嫌がるキコを叱咤激励して「道」の「規約」の起草を命じたのは聖教皇ヨハネパウロ2世だったが、2008年5月11日にそれを最終承認したのは教皇ベネディクト16世だった。
規約の日本語訳
その教皇ベネディクト16世が先の大晦日に帰天された機会に、キコは全世界の新求道共同体に以下のようなメッセージを送った。
棺の上に安置されたベネディクト16世の遺体
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
このたび、名誉教皇ベネディクト十六世がこの地上から御父のもとに逝かれたとの報せが届きました。
教授時代から始まり、次いで教理省長官、そして教皇として、聖パウロ六世、聖ヨハネ・パウロ二世に続いて新求道期間の道を支持し擁護してくださったベネディクト十六世に、わたしたちはいつも特別な感謝と愛情の念を抱きました。 ラツィンガー博士は、レーゲンスブルク大学教授であった70年代から、その教え子であった物理学博士ステファノ・ジェンナリーニと法学博士トニ・スパンドリの証言と、1973年に彼の自宅でカルメンとともに私と個人的に出会ったことから新求道期間の道を知り、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、次の言葉をもって、その小教区で「道」を開くことを提案しました。
「二人の弟子、またキコとカルメンと何度も話し合った結果、ここには、真の刷新の希望があると私は確信しています。新求道期間の道は、聖書と教父の精神に基づき、具体的な教会に深く根ざし、主任司祭と結ばれながら、同時に信仰生活の新しい道に開かれたものです。私の聞くところによると、教皇様(パウロ六世)も、提示された資料に基づいて、この事実を非常に肯定的に評価されたそうです。従って、この経験がドイツでも定着することが、私の強い望みです」。
教皇ヨハネ・パウロ二世の望みにより、ラツィンガー枢機卿様が教理省長官として、カテケージスと規約の認可のための審査を開始し、教皇ベネディクト十六世になってからは、2008年6月13日の教令で『新求道期間の道の規約』を、また2010年12月10日の教令で『カテケージスのための指針』を認証してくださいました。
私やカルメン、そして新求道期間の道――特にドイツにおける「道」――に対する教皇様の絶え間ない支援と愛情について、思い出すべき出来事がたくさんあります。
このため、教皇フランシスコと全教会と共に、主がベネディクト十六世の魂を天に迎え、その罪を赦し、彼が今天国の栄光に与ることができるよう、すべての新求道共同体が祈ることを勧めます。
ベネディクト十六世の教皇就任前、就任中、就任後の私たちに与えてくださった数多くの恵みの故に主に感謝しつつ、
2022年12月31日、聖シルベストロ一世教皇の記念日
マドリードにて、
キコ
私のために祈ってください。
良い2023年を!
このメッセージの背景には以下のような出来事があった。
スペインで新求道期間の道が生まれ定着した後、キコはその「道」をヨーロッパ中に広めようとした。
マドリッドの大司教の推薦状を携えて希望に燃えてやって来たキコは、ローマでは非常に冷ややかに迎えられた。「スペインではよかったでしょうが、ここ、ローマでは全く必要ありません」というような反応だった。そこで若いキコは、マドリッド郊外の貧民窟のバラックで「道」を始めた時と同じように、ジプシーが多く住むローマ郊外の貧民窟に入って、改めてゼロから活動を試みた。そこにはローマ大学の学生など、左翼思想のオルグが活動していた。時あたかも全世界で大学紛争の嵐が吹き荒れていた時代だった。彼らは、キコに興味をいだき、やがてその影響のもとにキコの忠実な協力者に変っていった。その中に、後日ドイツに留学することになるステファノ・ジェンナリーニとトニ・スパンドリがいた。そして、彼らはレーゲンスブルク大学教授であったラツィンガー博士の教え子となり、彼らの証言と、ラッツィンガー教授の自宅でキコに個人的に出会ったことから新求道期間の道を知ったラッツィンガー教授は、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、その小教区で「道」を開くことを提案した。キコがドイツ人の司祭たちの前で「道」の説明をしたときは、ラッツィンガー教授自身が通訳を買って出るほどの力の入れ方だった。
ドイツに初めて新求道期間の道を導入したのは、後にベネディクト16世教皇となるラッツィンガー枢機卿自身だった。
今回のブログはベネディクト16世の追悼を主題とするものではあるが、ついでに現教皇フランシスコと「道」の関係についても一言添えておこう。
聖教皇ヨハネパウロ2世とキコが協力してローマに開いたレデンプトーリス・マーテル神学院の7番目の姉妹校を高松教区に誘致したのは深堀司教だったが、短期間に発展し、年に6人もの新司祭を輩出する神学校の出現に脅威を感じた日本の司教団は、その閉鎖を決めた。
世界中にローマの新神学校「レデンプトーリス・マーテル」の姉妹校誘致熱でネットワークが急拡大しつつある中で(現在120校以上あり主要国で今現在無いのは日本ぐらい)、その7番目の姉妹校が閉鎖されるのを惜しまれたベネディクト16世は、将来再び期が熟したら福音宣教の有効な手段として日本に戻そうと考え、父性的愛をもってそれを一時的にローマに移植された。その際、日本の司教団と同神学校の絆の印として教皇ベネディクト16世は大分の平山引退司教を院長として任命され、私は院長秘書として共にローマに移り住んだ。2008年のことだったと思う。
その時、教皇の意向を受けて高松の神学校のローマ移転を指揮したのは、福音宣教省長官のベルトーネ枢機卿で、そのもとで実務を処理したのは秘書のフィローニ大司教だった。ベネディクト16世の生前退位後、フランシスコ教皇の下でベルトーネ枢機卿の後を受けて福音宣教省長官を務めたのはフィローニ枢機卿だった。
フィローニ長官は、高松の神学校の閉鎖に力のあった日本の司教たち数名が相次いで定年で退職したのを見て、期が熟したと判断し、ローマに疎開していた高松教区立「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を、「教皇庁立」に格上げして、東京に設置することを決めた。フランシスコ教皇は、ベネディクト16世の遺志を実現するためにそれを承認し、教皇訪日の1年前にフィローニ福音宣教省長官は訪日してその決定を日本の司教団に告げた。
こうして、フランシスコ教皇の訪日の目的の中の重要な案件として、教皇庁立「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル国際神学院」の視察と祝福があるはずだった。
しかし、教皇訪日を目前にして、日本の司教団の中から教皇庁立の神学院の東京設置には同意しかねる、という声がローマに届いた。それを受けて、教皇フランシスコは教皇庁立神学院の設置場所を急遽東京からマカオに変更された。現教皇はイエズス会出身であり、マカオは聖フランシスコ・ザビエルの時代のアジアの宣教の重要な拠点だった因縁もあってのことだろう。
それにしても、天皇や首相などとの世俗外交のスケジュールはともかく、新設されたばかりの「教皇庁立国際神学院」視察と祝福という教会的には主要目的を失った教皇の訪日は一体何だったのだろうか。
テレ朝の玉川さんではないが、うっかり「電通」の名を語ったらひどい目に合うかもしれないが、東京ドームでの教皇のミサを丸投げされて一手に仕切った電通の采配は、教皇ミサの共同司式を許された私の目には、さすがは大型イヴェントの超プロの技と映り、計算しつくされたその演出ぶりは「お見事」の一言に尽きた。
教皇フランシスコは世界のスーパースターには違いないが、日本「公演」では一円のギャラも要求しない。タダの切符に高いのでは35,000円の値段をつけて、全国傘下の旅行代理店を通して当日直前まで暇と金と好奇心に不足しない物見高い日本人に売りまくり、売れ残った切符を教会に返し、教会はその売れ残りをネットで申し込んでいた信者たちに抽選で分け与えた。濡れ手に粟のぼろ儲けをした電通はさぞ笑いが止まらなかったことだろう。その陰で、一生に一度、教会の頭の姿に接しローマ教皇のミサに与りたいと切望した敬虔な信者のどれほど多くが「抽選漏れ」の無慈悲な一言に涙をのんだことだろう。神様はこれをどう裁かれるのだろうか。
東京ドームで「ビーバー、パパー!」の歓声に包まれた教皇は、そのような楽屋裏を知らずに、一体どんな思いで日本を去って行ったのだろうか。
トヨタ自動車ご謹製、水素エンジン搭載の白いパパモビレに乗って東京ドームを一巡するフランシスコ教皇
それにしても、フランシスコ教皇が、公会議後の歴代の教皇の例にもれず、「新求道期間の道」を瞳のように大事にし、愛してくださっていることは、大きな慰めである。