~~~~~~~~~~~~
私は、なぜ敢えて
ホイヴェルス師の「弟子」
を僭称(せんしょう)するのか?
~~~~~~~~~~~~
ヘルマン・ホイヴェルス師の弟子は誰か?と問うとき、すぐ脳裏に名の浮かぶのは、師の生前夏毎に開かれていた紀尾井会の総会の光景だ。私が初めて参加したときには、大勢のキラ星のような先輩が顔をそろえていて、私などは20歳にも満たぬ無名の若僧に過ぎなかった。
ホイヴェルス師の弟子たちが集う紀尾井会の総会には実に錚錚(そうそう)たる顔ぶれがそろっていた。中でも先ず思い出されるのは最高裁長官を努めた田中耕太郎氏だ。
聖公会からカトリックに改宗した夫人の影響で無教会主義キリスト教からカトリックに改宗し、以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱えた自然法学者だが、第二次世界大戦末期には、カトリックの人脈を生かしてローマ教皇庁を通じた和平工作に関与した。また、1949年には、参議院で優生保護法による人工妊娠中絶に経済的理由を追加する事に反対し、「一家が貧乏だから四人の子供を二人にしろ、人口八千万が多過ぎるから六千万にしろ、そういう考えこそフアツシヨ的、全体主義的の思想である」と喝破(かっぱ)した人だ。
1957年8月19日の上皇様と美智子様との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。
このような田中耕太郎がホイヴェルス神父を深く尊敬している姿を私は目の当たりにしていたが、あらためて調べてみると、二人とも同じ1890年生まれで、田中耕太郎は1974年に没し師はその3年後亡くなっていることからして、年齢的に師弟関係と呼ぶにはいささか無理があった。一般にホイヴェルス師の弟子の会と思われている「紀尾井会」においては、田中も、その後任の最高裁長官松田次郎もやや別格だった。
加藤信朗(東大ギリシャ哲学)、今道友信(東大美学)、神父では沢田和夫、粕谷甲一らは、次の世代を代表して紀尾井会を賑わした人たちだが、彼らは、それぞれに大成していく過程で師に惹かれて近づいたというべきであり、濃密な師弟関係にあったとは必ずしも思えない。
他にも実に多くの人々が師の周辺にいたが、師との物理的な距離感や接触の度合いから言って、師に見いだされ、手塩にかけて育て上げられた、と言えるほどの人は思いのほか少なかったのではないだろうか。
そんな中で、私は18歳で上京して、四谷のキャンパス内にあった学生寮「上智会館」に住み始めると、早速イグナチオ教会の毎朝のミサでホイヴェルス神父様のミサ答えとして祭壇に奉仕し始めた。そして、神戸の六甲山を山岳部員と称して山猿のように駆け巡っていた粗野な私の心に、ホイヴェルス師の影響は日々刻み込まれていった。同じ学寮に住むイエズス会志願者らが舎監の神父の監督のもとで寮のチャペルのミサに与っている間に、私は初めから自由に師のそばに入り浸っていた。
毎週火曜日の午後、ホイヴェルス師は聖イグナチオ教会の主任司祭室で、都下の学生たちを集め、「紀尾井会」と称して哲学や文学や信仰の話をされた。「紀尾井会総会」は長い歴史のあるこの小さな会のOBたちの集まりであった。日常的には10名に満たないグループで、東大生もいたし中大生もいた、青山や、聖心などのミッション系の男女もいたが、もちろん上智哲学科の私はほぼ無欠席の常連だった。二三年目には、会の世話役のような顔をして、オープンデッキの大きな録音機を回して、師のお話を収録したりもした。
日々、腰巾着のように離れない私を、ホイヴェルス師はいろんなところへ連れて歩かれた。省線電車(今のJR)に乗って病院訪問をされるときも、国内の小旅行をされるときも、ついには師が1964年に初恋の宣教地、インドに旅をされたときにも、私は一人師の傍にいた。
また、学生だった私の話にも気さくに耳を傾けられ、お誘いすれば曹洞宗の澤木興道老子に会うために、わざわざ遠く信州まで足を運ばれもした。
澤木興道老子の参禅会に来てくつろぐホイヴェルス師(右は私)
澤木興道老師とともに 昭和の最後の雲水と言われた澤木老師は日露戦争に参戦し、二百三高地の激戦で重傷を負って生還した兵(つわもの)だった
私が師の愛と期待を裏切ってイエズス会を脱会しようとしたときなど、まだ新幹線のなかった遠い広島の修練院まで来られ、「それは悪魔の誘惑だ。お前は将来のイエズス会にとって必要な人間だから辞めてはならぬ。私の言葉に従いなさい!」ときつく言い渡された。私は、口では「はい」と答えたが、数か月後、結局行動でそれ裏切った。
それでも、師は私を破門することもなく、上京してみたらイグナチオ教会の目と鼻の先に4畳半を私のために借りて待っておられ、また師のミサ答えを毎朝するように命じられた。
師が東京の歌舞伎座で「細川ガラシャ夫人」を一か月通しで打たれたときも、初日、中の日、落(らく)の日には、師の右隣の席でご一緒に舞台を見守ることが許された。師は私にカトリック新聞のほぼ半ページにも及ぶ演劇評を書かされたが、それが私の文が活字になった最初のケースとなった。
師が故郷(ふるさと)のノルトライン・ウエストファーレン州、ドレイエルヴァルデに里帰りされたときなど、たまたまデュッセルドルフでドイツの銀行に勤務していた私は、車を駆ってお会いしに行き、生家の二階の師の少年時代の勉強部屋で姪ごさんの手料理を二人でいただいた。その時、師は「来年には『ガラシャ夫人』の歌舞伎をドイツに持っていくから、お前はそのマネジャーをやりなさい」と言われた。しかし、それは実現を見なかった。
師が無くなられたときは仕事でお葬式に出られなかったが、帰国後は追悼の会に度々参加し、司祭になってからは追悼ミサの共同司式をしたこともあった。そして、第41回目の「偲ぶ会」以降は世話役を引き継ぎ、コロナ禍にもかかわらず毎年「偲ぶ会」を続けることが奇跡的にできた。
私の青春とその後の人生は、師を抜きにして語れない。私はいま師の面影を知らぬ若い世代に師の遺産を受け渡すことを人生の最後の仕事と心得て励んでいる。
私も83歳になった。師の周りにいた立派な先輩方は既に世を去って、今では「我こそはホイヴェルス師の一番弟子!」と名乗り出る人も他に見当たらない。これが、不肖の我が身を顧みず敢えて「師の弟子」を僭称(せんしょう)する由縁(ゆえん)だ。この長い「時間(とき)の流れ」に免じてどうかおゆるしいただきたい。