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半世紀ぶりの沖縄
=ベトナム戦争からウクライナ戦争へ=
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9月末のある夜遅く、私のアイフォンに名前の現れない着信があった、一呼吸沈黙して声を出そうとした瞬間、女性の声が聞こえた。
声の主は弟のお嫁さんで、沖縄から弟の急死を告げる電話だった。すぐ代わって出た甥が事情をかいつまんで説明してくれた。
コロナで延び延びになっていた二番目の甥の結婚披露パーティーを楽しく開いたその翌日、みんなで船をチャーターして海の綺麗な小島で出来る者はスキューバダイビングを、出来ないものはライフジャケットをつけてシュノーケリングで遊ぶことになった。
弟は後者のグループの先頭に立って、船を離れて足の立たない海に浮かんだ。インストラクターが次々と水に導いているわずかな隙に、振り向くと弟は動いていなかった。急いで船に上げたが、心肺停止だった。70歳。私より12も年下だ。
弟の長男は大学病院の医師で、人工呼吸や心臓マッサージなどの応急手当を尽くしつつ、ドクターヘリのある港に急ぎ、対応を求めたが、結局だめだった、等々。
高度を下げると海に機体の影が
取るものも取り敢えず那覇に飛んだ。司法解剖から戻ってきた遺体を前に、未亡人と甥たちと心を込めて葬儀のミサを執り行い(私はカトリックのプロの坊さんだから)その後斎場まで行動を共にした。
弟は洗礼を受けたが、熱心なカトリック信者ではなかった。しかし、自分が世を去るに際して、三人の息子たちと自分の妻に対して、キリスト教の神髄である復活の信仰と再会と永遠の命への明るい希望のメッセージを私の口を通して伝えたいと望んだのではないかと思う。
皆それぞれに大阪、名古屋、東京へと家路を急いだが、私は一人ホテルに残って一休みしてから、タクシーで海の見える浜辺に行った。弟を奪った海を独りで眺めながら物思いに耽るうち、不意に旅立っていった弟を送る気持ちの整理がついた。
頭上には次々とジェット機が その中に珍しくプロペラ機も
足音の振動で皆ピタリと動きを止めて殻に閉じこもるので分からないが、
立ち止まって見ているとやがて恐る恐る動き出す
ここにも、おや、ここにも、沢山いる
手に取ると足も目もハサミもある可愛い奴だ、クスグッタイ!
那覇空港は米軍と共同使用だ。軍用ヘリもしょっちゅう飛んでいる
陽が傾いてきた
大きくて真っ赤な太陽が水平線に沈むのを飽かず見届けての帰り道、親切なタクシードライバーの言葉に甘えて、那覇空港の滑走路を遠望する道端で小休止。
民間航空機の着陸の間を縫って、米軍の最新ステルス戦闘機が8機も続いて離陸していった。運転手は沖縄でも珍しい光景だと言った。
夕闇の中、鼓膜をつんざく轟音を残してアフターバーナーの明るいオレンジ色の尾を引いてあっという間に音速で飛び去る姿は初めての体験で強烈な印象を受けた。
私の初めての沖縄は南ベトナム戦争と結ばれていた
初めての沖縄は1970年代、ベトナム戦争の末期だった。私は南ベトナムで裁判もなく劣悪な環境の中で長期にわたって拘留されている大勢の「政治囚」の釈放を要求する運動のリーダーをしていた。
「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)のリーダーの小田実(まこと)や、「ジャテックス」(・・・と言ったと思うが、正式の長い名称は思い出せない)という組織は、一時休暇中のアメリカ人脱走兵をシベリア経由で北欧の中立国へ逃がす団体だったが、かれらとも仲良くした。これは日本の公安当局にマークされた非合法団体だった。
ベトナム反戦運動にかかわっていたプロテスタントのNCC(日本基督教協議会)とカトリックの反戦グループとの接点も私だった。
そのNCCと合同で、ベトナムの「政治囚」解放キャンペーンのため、パリに亡命中のカトリック司祭グエン・ディン・ティー神父と同じく亡命者の仏教の反戦尼僧をセットで日本に招聘し、北海道から沖縄まで講演旅行を企画することになった。北海道から東京までのボディーガード兼通訳はプロテスタントの伊藤義清牧師が、東京でバトンタッチして沖縄までは私が引き受けることになった。
二人のベトナム人の客人にぴったり寄り添っていたので、ホテルと講演会場の往復以外は那覇の街並みを一切見ていなかった。
講演会はどこでも盛況だった。話の内容は想像を絶するものがあった。地面に掘られた大きな鍋のような穴の底に、大勢の「政治囚」が放り込まれ、上に格子状の蓋をしただけのものだった。食事は餌のように上から降ろされる。垂れ流し。強い日差しも雨も遮るものがない。騒げば上から石灰の粉を撒かれる。裁判はなく、人権は奪われ、家畜以下の状態に放置されていた。死ななきゃ出られないのは同じでも、ナチスの強制収容所の方がまだ遥かに人道的な扱いだった。アメリカの軍部は見て見ぬふりを決めていたのだろう。
私は1964年に南ベトナムを訪れ、前線近くまで行ったが、その時はまだ政治囚の存在は知らなかった。
ベトナム戦争はアメリカの一握りの人間が自分たちの欲望のために起こした戦争だった。アメリカは自分たちの傀儡の南ベトナム軍支援を口実に、南ベトナムを主戦場に北ベトナム軍と戦った。北ベトナム軍はソ連と中国の支援を受け、南ベトナムの反政府ゲリラ「民族解放戦線」と共に、民族自決を旗印に、アメリカ軍を相手に戦い、最後にはサイゴンを陥落させて勝利した。
X X X X X
その夜、甥たちや未亡人になったばかりの義理の妹にはちょっと悪いと思ったが、夕食をと国際通りを当てもなくそぞろ歩き、ふと目に留まった島唄のライブ店で泡盛を亡き弟に献杯した。
今、ウクライナ戦争を傍観している日本は、
明日、台中戦争に巻き込まれる
半世紀ぶりに沖縄を訪れた。那覇空港から県庁前のホテルまでモノレールで行った。近代的な都会の空気があった。
私の専らの関心はウクライナ戦争の行方だ。すべてがかつてのベトナム戦争と重なって見える。
ウクライナに戦争を仕掛けたのはロシアのプーチンだ。かつてのベトナムのようにウクライナは国民と領土を侵略者から護るために戦っている。ベトナム戦争の時はかつてのソ連と中国が後ろ盾になった。いまウクライナに対してアメリカとNATO諸国が支援に回っている。
侵略者の軍隊と傭兵たちは、拷問、虐殺、レイプ、略奪などやりたい放題だが、それはかつてベトナムでアメリカ人がやったことと同じだ。ジャングルがないからナパーム弾は使われないかもしれないが、その代わりにミサイルやドローンが多用され、無差別破壊と大量殺戮はやりたい放題だ。核兵器が使われるかどうかはプーチン次第だが、どのような展開になっても、最後はウクライナが必ず勝つ。それは国を守り妻子を護り生き抜くための戦いだからだ。侵略者の軍隊とは戦う動機と志気が全く違う。これもベトナム戦争の場合と全く同じだ。
第二次世界大戦では、日米が激しく敵対し多くの命を犠牲にしたあげくの果てに、日本は負けた。しかし、戦後日米は安保条約のもとにいつの間にか最も親密な同盟国になった。この豹変ぶりは信じがたい?
ベトナム戦争でアメリカとベトナムは熾烈な戦いを経て、ベトナムが勝った。しかし、戦後アメリカとベトナムは、これまた友好的に付き合っている。日米同様に昨日の敵は今日の友ということか。人種が違い、遠隔の地にあればそれも有りか?
では、ロシアとウクライナはどうだろう。ウクライナは勝つだろう。しかし、地続きで同じ人種のウクライナとロシアは今後再び兄弟のように仲良く付き合えるだろうか。戦争が終わっても、心の傷は永久に癒えず、憎悪が世代を超えて長く尾を引くのではないか。
ユダヤ人が心の底ではドイツを決して赦さないのと同じではないだろうか。母を戦争で失った私の心の傷は生涯癒えることはないのだ。
第2次世界大戦で敗北し、無条件降伏した日本の焦土と化した広島の廃墟の中で物心ついたわわしは、平和憲法とその第九条もあることだし、生きている間に二度と戦争を見ないだろう―見たくないものだ―と思ってきた。
しかし、82歳の馬齢を重ねた今、台湾有事でアメリカが介入したその日、沖縄、岩国、横田の米軍基地は中国のミサイル攻撃を受けるだろうか。日米軍事同盟の名のもとに日本は再び戦争に巻き込まれ、日本人の若者が戦場で死に、若い未亡人と子を失った母親の嘆きが日本を再び覆うに違いない。
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返信をありがとうございます。
書き間違いがあったので、少し訂正します:・・・、(汝らは)飢(う)ゑむために。
幸田司教様は FEBC の「福音を聞く–新約聖書への招き–>」で、「福音」を自分のこととしてください、と話しておられました。その立場では、Lc 6:25a のおきかえの後半は、
・・・、凍餒(とうたい)が苦しみあれば。
が良いように感じます。これは「徒然草」から借りたことばです。「ルカによる福音書」の平地でのイエス様の説教を終末のことだけではなく、福音を宣べ伝える人と結びつけて読んでいると、自然に、「ケリグマ―福音の告知‐バラックの貧しい人々の間で」のことを思い出しました。また、私が上に引用した、「希望の扉を開く ヨハネ・パウロⅡ世 著・・・」を、少し読んで驚きました。それは、第二バチカン公会議の公文書がたびたび引用されているためです。さらに最近、「ケリグマ―福音の告知・・・」にある信仰のありかたが、第二バチカン公会議の精神に支えられていることを知りました。今度は、この書と第二バチカン公会議の公文書を読むと良いように感じています。わたしには大変なことですが。
いろいろな考え方があっていいのではないでしょうか。お説はすんなり入ってきました。
また、偶然「あはれ」に出会いました。また、「あはれ」について書くことをお許しください。わたし「新米信徒」が 10/21 に、上に書いたことと関係していると思います。
新改訳聖書 (2017)
6:25a 「今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。」
の「哀れ」とこの節の前後の訳の「哀れ」が気になったので、Nova Vulgata を調べました。
NOVA VULGATA
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM
6:25a "Vae vobis, qui saturati estis nunc, quia esurietis!"
"Vae" を辞書で調べると、感嘆詞のようで、驚き、日本語におきかえてみました。
あはれ。いま満(み)てらるる汝らに、(汝らは)飢(ゑ)むために。
この「あはれ」は感動詞です。「あはれ」は、人の根からくることばのように感じます。
神父様のこの記事に直接関係しないことを、また書くことをお許しください。
ドミニコ会が神学の研究において進んでいたにも関わらず、異端審問に深く関わったということを聞いたことがあるので、検索すると、次の論文に出会いました。
「異端審問についての一考察
関根 謙司(人間学部コミュニケーション社会学科)文京学院大学人間学部研究紀要 Vol. 21, pp. 181 〜 195, 2020. 3」
この論文の p. 187 の「10.もう 1 つの異端審問―焚書」に、「ドミニコ会修道士だったベルナール・ギー(Bernard Gui, 1261/1262–1331)は異端審問官のマニュアルともいえる『異端審問官 提 要 』(Bernardus Guidonis, Pratica inquisicionis,
ca.1323)を著した 58).」 とあります。
この論文の p. 189 の 「12 結語にかえて」 に、「ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2 世は 2000 年に
大司教 Roger Etchegarey を通じて歴史神学委員会の決定(1998/10/29–30)を受けて 2000 年祭(400年に一度だけ閏年のある年)のために声明を発令した.以下はその要約である 73).」
とあります。聖ヨハネ・パウロ二世教皇様が 2000 年に異端審問について謝罪したことをようやく知りました。謝罪がごく最近のこととは知りませんでした。
全くの偶然ですが、神父様の本を紹介している site から、偶然、メッソーリ氏を介して、
「希望の扉を開く ヨハネ・パウロⅡ世 著 ; ヴィットリオ・メッソーリ 編 ; 三浦朱門, 曽野綾子 共訳/石川 康輔【日本語版監修】同朋舎出版 (1996) 」 にたどりつき、この書を手にすることができました。
また、偶然ですが、使徒言行録 24・15 に出会い、この証言のことは、(人権を離れても)死刑(死罪)を廃止することと関係しているように感じます。この証言のことは、カテキズムの "1038" に引用されていることも知りました。
神父様のこの記事に、次のコメントを書き込んでよいか悩みましたが、人の罪の根源ということではつながっていると思い、書き込むことにしました。
初代教会のことが気になり、
"Catholic Bishops' Conference of Japan" カトリック中央協議会の site にある次を読みました。
カトリック教会の歴史
I-2 使徒と初代教会
「・・・。結局、パウロが提唱した後者の信仰観が主流となり、キリスト教信仰は民族や言語、性別や社会の身分などに左右されるものではなく、神の国の福音をどのように受けとめるかにかかっているとみなされた。まさにキリストの福音は「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2・10)と理解されていったのである。・・・」
III-5 カトリック教会の宗教改革
「1542年、教皇パウロ三世は異端審問裁判を再開し、プロテスタント運動を上からくいとめようとした。」(トリエント公会議:1545 年から1563 年。)「ミサの典礼文をラテン語に統一したのもこの公会議である。」
職場の人から異端審問のことを言われたことがあるので、以前に次を読みました。
堀江洋文 著 「ポルトガルのインド進出とゴアの異端審問所」
専修大学人文科学研究所月報 第 259 巻、pp. 41-81 (2012)。この論文によると、ゴアの異端審問所は、1560 年から 1774 年、1778 年から 1812 年にあったそうです。
26/10/2022 の「時課の典礼」の朝の賛歌の詩編 77 には、II コリント 4・8 がありますが、例えば、II コリント 5・15 は、
「すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく自分のために死んでよみがえった
お方のために生きるためである。」 (バルバロ神父様による訳 (1980)) とあります。上に引用した論文によると、「旧信仰の教義や風習を守る傾向のある新キリスト教徒或いはマラーノ
と呼ばれる所謂ユダヤ主義者に対しては、ゴアにおいて厳しい対応がなされた。元来先祖の宗
教に戻ることは、カノン法上は棄教(apostasía)の罪に相当し一般に死罪が適用された。」(pp. 74-75) とあります。
今は、イエス様の山上の説教のことばは、まことのことだと感じます。
わたしの修正した投稿 (19/10/2022) をブログのコメント欄に出していただきありがとうございます。
21/10/2022 の「時課の典礼」の朝の賛歌を唱えていると、「あはれ」を強く感じました。詩編 51:3 の J・アブリ神父様による訳 (1967) を唱えていて「慈しみ」と「憐れむ」があることにようやく気がつきました。古語の「あはれ」は、人への大切なほとんどすべての心のありかたがあるように感じます。「あはれ」を意味の言葉、理念的な言葉である日本語の口語(?)で使い分けようとすると、おかしなことになるような気がします。素人の感想ですが。
今日の「時課の典礼」の朝の賛歌では、これでもか、というように「あはれ」、「あはれむ」(miserere, misericordia etc.)を唱えました。今の多くの日本人は、このような感覚を忘れているのかもしれません。線を引いて使い分けることは、できないように思います。「あはれ」は、ラテン語でいう呼格(日本語の感動詞)と深く関わっているようです。古いフランス映画を観ていると、よく "Ah !" と言っているように思います。
わたしの不注意な書き込みの間違いのためにお手数をおかけしてすみません。
「以下の文は、新米信徒が、15/10/2022 に、ここに書き込んだ内容と全く同じものです。谷口神父様の 17/10/2022 でのコメントは、その文に対する返信です。ただし、わたしが書いた文の最後から数行下に編集中における不要な言葉が残っていましたので、その言葉のみを削除しました。」
15/10/2022
「谷口神父様
返信をありがとうございます。このブログに出会った頃に、神父様の上のコメントにつながる、復活についての詳しい考察を読みました。また、復活(体のよみがえり)に対する信仰がなければ、脆い信仰になる
ということを教えていただきました。
わたしの仕事は、数学の研究と教育等です。最近は研究は
できていませんが、オンラインによる授業を初めて体験したり、周りの自然をよくみるようになり、多くのことに気付かされるようになりました。
『教会の祈り』は、唱えることができない日も多いです。12/10/2022 の『時課の典礼』の晩課を唱えていて、この晩課は一般の信徒にとっては、ぎりぎりの祈りのように感じました。また、詩編 139 の 23 節(J・アブリ神父様による訳 (1967))を唱えているときに、Vulgate の訳と Nova Vulgata の訳は異なるように感じました。調べてみると、異なっていました。素人がこのようなことをしてはいけないと思いますが、Nova Vulgata の Ps 139:23 の ";proba me" を検索すると、Nova Vulgata では、 Ps 17:3 "Proba cor meum et", Ps 26:2 "Proba me, Domine, et tenta me;" であることを知りました。この proba は、『調べる』という意味のようです。新改訳聖書 (2 版 1978)の詩篇 139:23 の『私を探り、』と『私を調べ』は、Nova Vulgata に近いように
感じます。間違っているかもしれませんが。」
返信をありがとうございます。私とラテン語との関わりは、偶然の成り行きからです。洗礼を受けた後、祈祷書を買いましたが、あまり馴染めませんでした。あるとき、書店で「朝・晩の祈り(あかし書房)」と出会いました。この書の詩編等をそのまま朗読していましたが、わたしには合っているように感じました。そして、その二年後ぐらいに書店で「教会の祈り」に出会いました。わたしには無理なような気がしましたが、思い切って買いました。初めは何もわからずに、そのまま朗読していましたが、そのうちに「典礼聖歌集」に楽譜があることに気がつきました。しかしながら、「教会の祈り」の訳が聖書の訳と随分違うことに気がつきました。「教会の祈り」は、ラテン語規範版の日本語訳であると書いてあるので、ラテン語規範版を調べるしかなく、初めてラテン語を読みました。このようにしてラテン語と出会いました。
ラテン語に慣れていないので、大変苦労しますが、ラテン語に出会ってよかったと思います。聖書の日本語訳では命令法のように思えることばが、ラテン語訳では叙想法であることを知ったときは大変驚かされました。受動態の大切さにもようやく気付かされました。神的受動態という言葉も知りました。また、例えば、詩篇 95 は、「時課の典礼」では、以前は、朝の初めに毎日唱えられていたようですが、11 節の最後の "Non introibunt in requiem meam" の、"introibunt" から、このことは必ずしも確定したことではないということも知りました。初めは苦行でしたが、今はラテン語を読むことを好きになりました。
たしかに古い言葉ですが、日本語の古語と相性が良いように感じますし、日本語の古語とともに曖昧なところがよいように感じます。あまりにも明確に心のありかたを説明しようとする言葉には、最近は抵抗を感じるようにさえなりました。個人的なことについての長文をすみません。
ブルガータ役は古いと言う偏見からかもしれませんが。
私はあなたに「超ベテラン信徒様」のあだ名を献上します。
毎日教会の祈りを唱えておられる。今はそれを唱える司祭は少なくなりました。(修道会で修道院のメンバーが共同で習慣的に唱える場合は別として)。それに反比例して、聖職者でない信徒の方で独りで毎日のように唱える方々が増えているのではないかと思っています。
だから、あなたのイメージを絞りかねています。
ブログの中の弟の死について反応してくださった方はあなただけではありませんでしたが、皆私には顔と名前が浮かぶ方ばかりでした。だから、ひとしお有難く思いました。この欄を借りて御礼申し上げます。
教会が煉獄はあると教えるのであれば、私は否定しません。しかし、わたしには煉獄はないと思っています。死んだら深い眠りに入り、夢も見ないでしょう。五感が封じられ、からだが水蒸気と煙と灰になってしまったら、どうして知覚し意識を保ち、たとえ完全に受け身にであってさえ、変化を遂げることが出来るのか、わたしにはわかりません。
しかし、私を記憶する人が私のために祈り犠牲をささげて神様と談判してくださるなら、復活の時の私の状態は、それらの祈りと犠牲のなかった場合と明らかに異なっているでしょう。
私にとって死と復活はコインの裏表、つまり、あたかも死んだ次の瞬間に復活の日を迎えたかのように感じることになるでしょう。たとえ、私の死と復活の二つの時点の間に、数年の、数万年の、数十億数百億年の時間の経過この宇宙にあったとしても、からだを失って深い深い眠りに就いた私の魂にとっては一瞬の出来事であるに違いないと思います。
死んだあと復活まで、私の魂は空間の変化、時間の流れを知覚する術を失っているのですから。
しかし、私の生前を記憶する人が私の魂を憐れみ、神様に私の魂の救いを懇願し、祈りと犠牲をささげてくだされば(その人はその人の残りの時間の中でそれが出来るので)神様はそれに免じて、それを受け容れて、私の復活の時の状態に必ず豊かに手心を加えて下さるでしょう。有難いことです。
だから、わたしを残して思いがけず去って行った人、赦しを請い和解する機会を永久に失ってしまった友や家族や隣人のために祈り、執り成し、犠牲の捧げものと共に神様に懇願すれば、復活の日までに神様は必ずその魂との関係を立て直してくださるでしょう。
だから、煉獄があるとすれば、死者の魂が煉獄に落ちるのではなく、彼の煉獄をまだ生きている私がこの世の時空の中で彼に代わって生きるのだと思います。
そして、その私もやがて死んで、世の終わりに皆いっせいにからだを返していただいて復活するでしょう。そして、自分のために取りなしてくれた人、私に代わって私の煉獄を生きてくれた人がいたことを知って、涙して抱きあうことでしょう。
だから、死者を思い神に祈ることは大切です。可能な範囲でお墓を大事にし、死者のためにミサをささげることはいいことです。
本能でしか生きていない動物は決してそんなことを思いつきませんからね(笑)。人間らしく生き、動物に成り下がらないように気をつけましょう、と自戒します。
弟様の突然の死は、ご家族の方には衝撃だったのではないかと思います。わたしの父の死も突然でした。名誉教皇様は、「信仰について」で、亡くなられた人をおもって祈ることは自然なことで、煉獄が、もしないのであれば(神学においてその存在を証明することができないのであれば?)、煉獄をつくらなければいけないと仰っています。
戦争についてですが、日本の横にロシアと中国があり、日本の向こうに太平洋があるので、日本は大変危険な場所にある、と多くの人が思っていると思います。政治家の力量が問われますが、首相が NATO の首脳会議に出席したことが悪いことをもたらさなければ良いのですが。
12/10/2022 の「時課の典礼」の朝の賛歌を唱えていると、救いへの道のようなことを感じました。特に、詩篇 146 の 7 節から 9 節を唱えているときに。Benedictus(ザカリアの賛歌)のルカ 1・79 に "in viam pacis" ,「平和の道に」とはっきりと詠われています。「平和の道」に対して、第二バチカン公会議は大切な会議であると思います。
神父様の著書「バンカー、そして神父―放蕩息子の帰還」亜紀書房 (2006) の「宴の席はいつも一杯 ーあとがき」の「地獄」についての考察を読みました。普通に思われている地獄にあることとは異なる、恐ろしい状態に置かれることが書いてあります。地獄のことを安易に持ち出す人は、一度、上記のあとがきを読んでみたらよいと思います。