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聖人の死に方について
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ナザレのイエス、イエス・キリストは天地万物の創造主である「神」を父と呼び、天の御父の「ひとり子」としてこの世に誕生したが、自分のことを好んで「人の子」と呼ばれた文字通り聖者の中の聖者であった。
人の子イエスは、生前、妥協の余地のない回心の教えを説き、多くの奇蹟を行い、最晩年は群衆からダビデ王の裔(すえ)とかメシア(救世主)とかの歓呼の声で迎えられたが、その直後には一転してローマ帝国への反逆者の濡れ衣を着せられて二人の重罪人とともにむごたらしい十字架刑に処せられ、見るに堪えない姿で孤独のうちにに死んで葬られていった。彼の愛した弟子たちはみな逃げ去り、十字架の下に残ったのは若いヨハネと母マリアと数人の敬虔な婦人たちだけだった。
キリストのデスマスク?(聖骸布)
12世紀末に彗星のごとくに現れた清貧の聖者、アシジの聖フランシスコは、神様の声に促されて、軒の傾いた当時のカトリック教会を建て直し、清貧の托鉢僧団の先駆者として、教会の改革に輝かしい実績を残し、生前はキリストの再臨ではないかと噂されるほど人々から愛された。
しかし、そのフランシスコの運動は、短期間に目覚ましく発展し、その過程で早くも大きく変質していった。そして、聖者が掲げた清貧の理想とは裏腹に、彼の興した修道会は、土地を所有し、大きな修道院の建物を持ち、富を集め、大勢の学者を輩出し、世俗的にも教会の中でも権力者、支配者となるものが現れた。素朴で貧しい「小さな兄弟」たちの清らかな貧しい会は、創始者フランシスコの意に反してどんどん肥大化し富み世俗化していったのだった。そして、組織は独り歩きを始め、ついには「師父聖フランシスコの理想」は会の更なる発展を阻む疎ましい足枷と見做されるに至った。
晩年のフランシスコは、結核を病み、ほとんど失明して弱りはて、失意のうちに修道会の主流からは疎外されていった。彼は、裸で生まれたのだから裸で土に帰ると言って、最初に与えられたポルチウンクラ(ちっぽけな土地)に横たえられ、最後まで彼に忠実だった4人の同志たちとローマの貴婦人ジャコマだけに見守られて、ひっそりと惨めに死んでいった。私はそこに失意の悲惨な敗残者イエスの十字架上の最後に共通する姿を見る。
アシジのフランシスコに最も似ているといわれる肖像画
私の敬愛するイエズス会士、ヘルマンホイヴェルス神父様は、東京の目玉教会、聖イグナチオ教会の初代主任司祭であり、生涯名誉主任司祭であったが、四谷周辺に鳴り響く鐘楼を備えた最初の教会堂を建て、その司祭生活を通じで3000人以上に洗礼を授けるというギネスブックものの数字を残し、外国人が受けられる最高の勲章を日本の国家から授与されるなど、日本語を美しく操り、随筆家、演劇や映画の作家・演出家であり、詩人、哲学者として輝かしい生涯を終えられた。私は彼が聖人であったことを疑わない。
最晩年の2度目の帰国の時には、故郷のウエストファーレン州ドライエルヴァルデ村の生家で、当時ドイツの銀行で働いていた私と二人きり、ホイヴェルス少年の勉強部屋で食事をいただきながら、来年は細川ガラシャの歌舞伎を引き連れてドイツ巡業をするから、お前に現地マネジャーの仕事を託する、と言われた。しかし、その言葉はかなわず、帰国後のホイヴェルス師は急速に容体が悪化し、最後のころは、昼食後の午後2時すぎに再び2階から降りてきて、お昼ご飯はまだですかと言われれるなど痴呆が進み、教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って入院し、退院後は療養生活を送っていたが、ある日、車椅子でミサに与っている最中に急性心不全で死去された。
私が撮影してホイヴェルス師
外面上は、師の最後はただの老衰した痴呆老人だったが、樹木希林さんが広めてくれたおかげもあって、師の残された散文詩「最上のわざ」は教会の内外で広く知られている。
樹木希林
ヘルマンホイヴェルス神父の
「最上のわざ」
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し
従順に、平静におのれの十字架をになう
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけても妬まず
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役たたずとも 親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後の磨きをかける
まことの故郷へ行くために
おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「子よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」との。
ホイヴェルス師の命日には、コロナ期の最中も途切れることなく、今年も6月9日、第47回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」が ー最近は師の生前の姿を知らない若い世代も加えてー 四谷で開かれた。一人の宣教師を偲んで半世紀近くも人々がその遺徳を慕って集うというような例が、他にあっただろうか。
話は変わるが、私が長年探し求めてついに巡り合った導師のキコ・アルグエイオは、聖フランシスコから800年遅れて現れた稀に見る巨大な聖人だと私は信じて疑わない。ちなみに、「キコ」はスペイン語で「フランシスコ」の愛称、短縮型とされ、いわば「フランシスコちゃん」とでも訳すべきものであるらしいが、キコは聖フランシスコ没後800年ぶりに現れた大型聖人として後世に語り継がれるに違いないと私は考えている。
フランシスコ教皇とキコ
そのキコは聖教皇ヨハネ・パウロ2世と手を携えて、第2バチカン公会議の決定を実際の教会の日常に、信徒の生活の中に、生かし実践する一大実験に打って出た。コンスタンチン大帝の時代に教会に大量に雪崩れ込んできた自然宗教の要素を脱ぎ捨て、再び西暦およそ300年代までの初代教会の純粋な信仰の原点に復帰するために、第2バチカン公会議の決定を誠実に生きる大事業に手を染めた。キコは、キリストが洗礼の前提とした「回心」(改心)のわざを、洗礼の前か後かを問わず、忠実に信仰生活に生きる「道」を切り開いた。そして、彼の「道」は世界中で花開き、いま多くの豊かな実を結びつつある。
キコが聖人だとすれば、彼は歴史に前例のない型破りの聖人だ。もともとは画家で、素晴らしい絵を多数残した。マドリードの新しい司教座聖堂の内陣の壁画を始め、聖画家ジオットのように多数の教会に壁画を残している。ロマネスクやゴシック様式に並ぶ新しい教会建築様式の創造にも野心的なチャレンジをした。民衆に歌われる数えきれない宗教音楽を作曲し、自らギターを爪弾き歌って聞かせた。ついには、フルオーケストラとコーラスのためのシンフォニーを2曲も作曲し、東日本大震災の5周年には200人の演奏家集団を引き連れて来日し、地震、津波、原発事故の三重苦に見舞われた被災地で、「罪のない人々の苦しみ」という一作目のシンフォニーのチャリティーコンサートツアーを実施し、福島、郡山に続いて、東京ではサントリーホールで大成功をおさめた。私は現場の企画を一手に引き受け、キコと共に働いた。彼はルネッサンス期の巨匠たちの系譜に連なる現代の天才的総合芸術家と言っても過言ではないだろう。
キコはまた、毎年宣教のために忙しく旅行し、敬虔な富豪の申し出があればプライベートジェット機で世界中を飛び回ることも厭わなかった。彼は煙草を吸い、葡萄酒をたしなみ、結構な美食家でもある精力的な活動家だと言える。もし彼が聖人なら、従来の固定観念が当てはまらない型破りの聖人と言えるだろう。
私は彼と同じ1939年生まれだが、彼は私の何倍も激しく密度の高い生き方をしているから、私よりも早く老いが進んでいるのは当然と言えば言えなくもない。私は何とかしぶとく彼よりも長生きして、彼がどのような死に様を見せるか、自分の目で見届けたいと願っている。彼が名声と隆盛の絶頂で、お釈迦様のように泣きわめく弟子の500羅漢たちに惜しまれながら格好よく大往生を遂げるのか、それとも、キリストや聖フランシスコヤホイヴェルス師のように格好悪い惨めなぼろぼろの最後を迎えてひっそりとこの世を去るのか、それが気になって仕方がない。
スターダムの絶頂で死なれたら、がっかりだ。私が期待した大聖人ではなかったかもしてないという苦い後味が残るからだ。
(つづく)