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忘れられた中世の町「アナーニ」-その(2)
「教皇ボニファティウス8世」
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アナーニ聖堂のボニファティウス8世像
ボニファティウス8世のことを詳しく知りたいと思った。
私にとって、コピーしてブログに取り込むことが出来る一番手軽なソースはウイキペディアだ。だから、ついその抜粋に依存してしまうのだが、それは、私がウイキペディアの記事内容を全て無批判に肯定しているという意味ではない。「例えば、ウイキペディアにはこう書かれているが・・・」として、話を進めるうえでの取り敢えずの出発点くらいに軽く考えて頂きたい。(以下、『・・・』の中はウイキから借りた言葉)
ボニファティウス8世の初仕事
前教皇を強引に退位に追い込んで自ら教皇の座についたことは前回触れた。『ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと教皇宮をナポリからローマに移すことであった。』
信者の「信仰と道徳」を正しく導くキリスト教の最高牧者である教皇の初仕事としては、あまりにも世俗的ではないか?
コロンナ家との対立
『ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族コロンナ家が新教皇ボニファティウス8世に反感をいだいた。そこで、前教皇退位の経緯に着目し退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が違法ならば、新教皇の正統性が揺らぐこととなる。ボニファティウス8世は、これに対し、みずからの保身のため前教皇をフモーネ城の牢獄に幽閉した。
1297年、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪するという実力行使に出た。コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との声明文を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐のための「十字軍」を招集した。1298年、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、やがてフランスへと逃亡した。』
ローマのトレビの泉と目と鼻の距離に今もコロンナ宮殿がある。見学曜日と時間が限られているので、日本人のローマ通でも意外と中を見た人は少ないが、オードリー・ヘップバーン主演の不朽の名画「ローマの休日」のラストシーンの記者会見はこの宮殿の中での撮影だ。前教皇の退位の茶番劇の顛末は既に前回の「アナーニ」に記したが、自分の政敵を倒すために「十字軍」を招集するに至っては、キリスト教の堕落もここまで行くことが出来るか、と慨嘆する他はない。
フランス王との対立
『1294年、フランス王フィリップ4世はイングランドと対立し、イングランド王エドワード1世に対して戦争を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的課税を実施し、税はキリスト教会にも課せられた。しかし、教会課税は教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった。敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである。ボニファティウス8世は、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した。しかし、このときの対立はボニファティウスがフィリップ4世の祖父ルイ9世(聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しなかった。』
教皇ヨハネパウロ2世と教皇ヨハネス23世が間もなく復活祭明け4月27日に教皇フランシスコによって「列聖」されるが、この二人の教皇はまことに聖なる生涯を送った信仰の鏡と呼ばれるにふさわしい。それに比べて、税収を廻ってフランス王と争ったり、政争の手段に世俗の国王に「聖人」の称号を贈ったり、政敵を倒すために「十字軍」を編成したり、これが十字架上の死を通して人類の罪を贖いと復活の命を勝ち取ったイエス・キリストを主と仰ぐ信仰の指導者のすることか、とあいた口がふさがらない。
フィレンツェへの介入とダンテ
『一方でボニファティウスは、フィレンツェの支配を企図して教皇派の内紛(黒派対白派)を扇動した。フィレンツェでは富裕な市民が白派を支持、古い封建領主が黒派を支持し、両者はたがいに対立していた。白派はプリオラートと称される最高行政機関をつくって3名の頭領(プリオリ)を選んだが、ダンテ・アリギエーリはその1人に選出されている。教皇庁はフィレンツェに対し教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと命令した。ダンテはこれを拒否する書簡をローマに送ったが、教皇庁は応じない。そのため、1301年、ダンテはフィレンツェ使節の1人として教皇に会ったが、帰途シエーナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。ダンテの代表作『神曲』第1部(「地獄篇」)では、ボニファティウス8世は地獄に堕ちた教皇として、逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている。』
「神曲」の著者ダンテと教皇との間にこのような確執があったことは、今回初めて知った。ダンテがペンで一矢を報いたと言うことだったのか。
アナーニ事件(教皇の屈辱)
『1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した。これは、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された。
1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために聖職者・貴族・市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会をパリのノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して国内世論を味方につけた。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを破門にしたが、フィリップの側も悪徳教皇弾劾の公会議を開くよう求めて両者は決裂した。このとき、ローマ教皇とフランス王の和解に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家出身のギヨーム・ド・ノガレであった。
フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った。ノガレの両親はかつて異端審問裁判で火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。
1303年9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のあるアナーニに滞在中、同地を襲撃した。
ギョーム・ド・ノガレとシアッラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレはのがれられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の10月11日、急逝した。人びとはこれを「憤死」と表現した。』
もう、あきれ果てて物も言えない、とはこの事か。教皇が世俗界で最高の権力を主張するに及んでは、キリスト教の世俗化、堕落は既に頂点に達しようとしていた。ナザレのイエスの12使徒の頭、聖ペトロの後継者は、信仰と希望と愛の最高牧者であることをやめて、世俗権力の亡者、悪徳の鏡へと堕落していた。約200年後にルターによる宗教改革を招く素地がすでに固まっていたと言えるだろう。
ボニファティウス8世の石棺(ヴァチカン)
人物評価
『ボニファティウスは、聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり、また、「最後の審判」は存在しないと信じていた。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「イエス・キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている。
ボニファティウス8世は、何ごとによらず華美を好み、美食家で、宝石でかざったきらびやかな衣服を身にまとい、金や銀などの宝飾品を常に着用していた。賭博も好み、教皇庁はまるでカジノのようであったという。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている。
政治的に対立したフィレンツェのダンテ・アリギエーリからは、上述のように、主著「神曲」のなかで「地獄に堕ちた教皇」として魔王のルシフェルよりも不吉な影をもって描かれた。』
私はウイキペディアの記述が全て正しいと断言できるほどの知識を持たない。また、他にも様々な観点が有り得ることを否定するものでもない。しかし、ローマでイタリア人の神父たちの話を聴いていて、ウイキペディアの記述がそれほど真実から遠くないだろうと言う印象を持つ。
上の記述を読んで、皆さんは宗教(この際キリスト教のことだが)というものはここまで腐敗堕落できるのか、と唖然とされないだろうか?私はする。こんなのに比べれば、日本のお寺さんの中にお金の亡者だとか、女好きとか陰口たたかれる人が居ても、実に可愛らしく見えてくるではないか。
教皇フランシスコが、最近狭いバチカン市国の中を移動中、立派な屋敷が新築中なのを見て、何を建てているのかと聞いた。側近があれは国務長官ベルトーネ枢機卿猊下の新しいお屋敷です、と答えた。すると、教皇は、その建築費はバチカンの公費から支出することを認めない。枢機卿が自分の財産から支払うべきだ、と言ったそうだ。サンタ・アンナの普通のアパートに住んでいる清貧の教皇の面目が輝いたエピソードと言えよう。
現代まで267代の教皇の内、聖人の誉れ高い人物がいなかったわけではない。それどころか、『初期の教皇はほとんどすべて「聖人」に列せられている。だが、その後は「聖人」教皇は数えるほどしかいない。列聖された教皇は全部で78人だ。』と(「概略ローマ教皇歴代誌」に)あるが、58代までの初期皇たちが、2-3の例外を除いてみな聖人だったのに対し、その後約1500年間の200代余りの教皇の内、聖人と呼ばれた人物が数えるほどしかいなかったということは一体何を意味しているのだろうか。その点の解明は「アナーニ」その-(3)以降に譲りたいと思う。
(つづく)
おお!ドイツでもそのような話が・・・、とMGさんのコメントとの偶然の一致に驚きました。
【バチカン3月26日CNS】によれば、「バチカンは、司教館や教区センターの改装・建設費用をめぐり批判を受け、休職処分になっていたドイツ西部リンブルグ教区司教の退任願いを受理した」となっている。つまり、バチカンによる司教職の実質解任と言うことだろう。
教皇フランシスコの清貧路線は、当るところ敵なし、の勢いだ。
ご配慮ありがとうございます。
この手の話題は個人的に興味があるところでして,
思わず書いてしまいましたが,
何の世界もそうであるように,
人によりけりということでしょうか。
ある神父さんから聞いた話では,
亡くなった白柳枢機卿などは,
本当に質素な生活をしていたとのことです。
一方で,某司教様が司教になられたとき,
まっさきに司教館の改築をすると言い出されたそうで,
「予算考えないであれもこれもって言うんで困ってるんだよね」
と,当時教区事務局にいた神父さんが嘆いていました。
教区HPで,その金に糸目をつけずつくったという,
素敵な司教館を見ることができます。
もっともその司教様は,
残念なことに司教館竣工後わずか数年で,
のっぴきならない事情によって,
別の教区への転任を余儀なくされるというわけです。
私としては,これらの話を持ち出したのは,
これによって教会の腐敗を告発するなどという,
そういう意味はまったくありませんし,
批判するつもりもありません。
何せ2千年の間,悪いこともたくさんしてきた教会です。
免罪符売って金儲けしてたことは,
日本人ならみな知っています。
ですから,聖職者がブラックカード持とうが,
豪華なお屋敷に住もうが,
基本的には取るに足らない話だと思います。
むしろ,それもありかなあ,と。
ただ,今の教皇が身をもって示してくれている
「清貧」にはとても共感できますし,
我々下々の者はもちろんのこと,
聖職者の方々は,よりそうであるべきことが
望まれているのではないかと感じています。
ペドフィリアは論外ですが,
こういった,普段あまりできない話というか,
言いにくい話ができるのも,
神父さまのブログの魅力の1つですね。
まもなく聖週間となりますので,
いつものような熱い記事を期待しております!
ローマのレストランで,
偶然,日本人の司祭(たぶん司教)と信者のグループの
隣席になったことがあります。
会計のときに,その司祭がさっとカードを取り出し,
みんなの分を支払ってました。
知り合いのカメリエーレが,
あのカードはプラチナカードより上の,
ブラックカードと呼ばれるもので,
フェラーリだって買える!
もっている人はめったにいない。
自分もこれまで数度しか見たことがない。
と耳打ちしてくれました。
どうしてそんな大そうなカードを,
教会の神父さんがもっているのか,
非常に不思議に感じたのを覚えています。
それで、元の投稿時間(2014-04-08:12:46)だけをずらして、公開する決心をしました。
そこに露呈しているのは、まさにボニファティウス的な実態であって、それは決してあってはならない教会の姿、本当のキリスト教とは無縁の忌むべき実態であることをはっきりと申し述べておきたいと思います。
そして、たとえ少数派であっても、また迫害を受けていても、キリストの教えを信じて回心の業に励もうとしている信者たちが、地下水脈のように日本の教会の中にも生きていることを証言したいと思います。
投稿ありがとうございました。「本当の話」は実に「ブラック」ですね。信じますが、このブログの読者層の中にはカトリック信者でない方も多いので、単純に躓く人がいるかもしれません。私はこれでも教会をとても愛していますので、そう言う事態を避けるためにこの話はMGさんと共有するにとどめたいと思います。ご理解ください。
教皇フランシスコが、最近狭いバチカン市国の中を移動中、立派な屋敷が新築中なのを見て、何を建てているのかと聞いた。側近があれは国務長官ベルトーネ枢機卿猊下の新しいお屋敷です、と答えた。すると、教皇は、その建築費はバチカンの公費から支出することを認めない。枢機卿が自分の財産から支払うべきだ、と言ったそうだ。
ということは現在も枢機卿ともなれば豪華な屋敷を新築できる個人財産を持っているということですか?
J .K.