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聖人の死に方について(そのー3)
ー映画「セントオブウーマン」(夢の香り)に触発されてー
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野良犬のように自由な国際放浪生活にすっかり慣れていた私は、いつの間にか日本全国に羊を抱える広域牧者にもなっていた。
昨年神奈川県のホームで洗礼を授けた老人が亡くなられ、その遺骨が岩国市のお姉さんの家に帰ってきたのを機会に、追悼ミサを捧げるために神戸から出向くといった具合だ。
岩国まで行けば、元米軍兵士で、半世紀たった今もベトナム戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている親友に会わなければならない。聖書のたとえ話ではないが、神戸中央教会のおとなしい99匹の羊をおいて、一匹の迷える子羊を追わなければ私は本物の善き牧者にはなれない、というプロの神父の本能のなせる業だ。
間もなく90歳の大台に乗ろうという彼は、今も20トン積みの大型トラックの現役運転手をしている。年齢からいえば実に無謀な話で、このままいけばいつか運転中に事故って死ぬと私は恐れるが、彼にしてみれば、無心にハンドルを握っている時だけPTSDの嵐から逃れられる救いの時間なのだ。彼には無意識のうちにそういう死を願望している気配がある。私はといえば、仕事を終えた彼と温泉に入り背中を流しあう以外に、なすすべを知らない。私のキリスト教の話など、彼の恐ろしい記憶の前には羽毛よりも軽いのかもしれないのだ。
時には彼の助手席に乗ることもあるが、たいていは彼が走り回っている日中は常宿の会社社長(いや、今や会長)夫妻の家でパソコンに向かうのが私のパターンなのだが、今回は朝から会長夫人と二人だけになり、「たまには映画でもいかが?」と誘われて、居間の特大の液晶画面に映し出された映画が「セントオブウーマン」(直訳すれば「女の香り」)だった。
この映画、彼女のお勧めの一本だけあって、私の心に深く突き刺さり、万年故障気味の私の涙腺からは涙があふれ出たが、その感動の内容をうまく伝えるのは私の能力を超えているので、インターネットからの引用に任せることにしよう。
孤独な盲目の退役軍人と心優しい青年の心の交流を描き、アル・パチーノがアカデミー主演男優賞に輝いたヒューマンドラマ。「カッコーの巣の上で」の脚本家ボー・ゴールドマンが自身の経験を加えて脚色、「ビバリーヒルズ・コップ」のマーティン・ブレスト監督がメガホンをとった。
【あらすじ】
アメリカのボストンにある全寮制名門高校に奨学金で入学した苦学生チャーリーは、裕福な家庭の子息ばかりの級友たちとの齟齬を感じつつも無難に学校生活を過ごしていた。感謝祭の週末、クリスマスに故郷オレゴンへ帰るための旅費を稼ぐためチャーリーはアルバイトに出ることになっていた。そのアルバイトとは姪一家の休暇旅行への同伴を拒否する盲目の退役軍人フランク・スレード中佐の世話をすること。とてつもなく気難しく、周囲の誰をも拒絶し、離れで一人生活する毒舌家でエキセントリックなフランクにチャーリーは困惑するが、報酬の割の良さと中佐の姪カレンの熱心な懇願もあり、引き受けることにする。
感謝祭の前日、チャーリーは同級生のハヴァマイヤーたちによる校長の愛車ジャガー・XJSに対するイタズラの準備に遭遇。生徒たちのイタズラに激怒した校長から犯人たちの名前を明かすなら超一流大学(ハーバード)への推薦、断れば退学の二者択一を迫られ、感謝祭休暇後の回答を要求される。チャーリーは同級生を売りハーバードへ進学するか、黙秘して退学するかで苦悩しながら休暇に入ることになった。
中佐はそんなチャーリーをニューヨークに強引に連れ出し、アストリアホテルに泊まり、“計画”の手助けをしろ、という。チャーリーはニューヨークで、中佐の突拍子もない豪遊に付き合わされるはめになる。高級レストランで食事をし、スーツも新調し、美しい女性(ドナ)とティーラウンジで見事にタンゴのステップを披露したかと思うと、夜は高級娼婦を抱く。だがチャーリーは、共に過ごすうちに中佐の人間的な魅力とその裏にある孤独を知り、徐々に信頼と友情を育んでいく。
旅行の終りが迫ったころ、中佐は絶望に突き動かされて、“計画”―拳銃での自殺―を実行しようとするが、チャーリーは必死に中佐を引き止め、思いとどまらせる。ふたりは心通わせた実感を胸に帰途につくことができた。
しかし、休暇開けのチャーリーには、校長の諮問による公開懲戒委員会の試練が待っていた。チャーリーは、全校生徒の前で校長の追及によって窮地に立たされるが、そこに中佐が現れ、チャーリーの「保護者」として彼の高潔さを主張する大演説を打ち、見事にチャーリーを救うのだった。満場の拍手の中、中佐はチャーリーを引き連れ会場を後にする。
再び人生に希望を見いだした中佐と、これから人生に踏み出すチャーリーのふたりは、また新しい日常を歩み始めるのだった。
チャーリー役のクリス・オドネル ドナ役のガブリエル・アンウオー
私はこの映画を見終えて、ふと、清水の女次郎長さんのことを思い出した。美しい清水教会の建物を守ろうとして捨て身で声を上げた彼女のひたむきな姿が、若いチャーリーの不利益を恐れず、真実と魂の純粋さを守ろうとする姿勢と重なって見えたからだ。
外国人宣教師の残した業績は負の遺産だから教会の建物も含めて歴史から消し去れなければならない、というような無茶苦茶なインカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーが背景にあるのかどうかは知らないが、信者さんたちや地元の住民の反対を無視して、美しい教会の取り壊しに走る教会の姿勢に異を唱えた信者を「破門も辞さない」と大勢の信者たちの面前で威嚇し、鬱状態に追い込んだ高位聖職者を相手取って、パワハラ訴訟が始まったことを、彼女の支援者から送られてきた小さな朝日新聞の記事と傍聴者の一人が描いた法廷のスケッチが告げていた。
朝日新聞の記事
同時に80人以上の面前で発せられた「破門を考えている」という言葉を聞いた信者たちの誰一人として、その事実を法廷で証言する勇気を持った人が現れないという危機的な状況も伝わってきた。
それはそうだろう、巻き添えを喰らって「破門」されたら、信者生命に対する死刑宣言にも等しい。信頼していた親しい信者さんたちが一斉に彼女に背を向けて去っていったのも無理はない。「2000年前、イエス・キリストが十字架の上で惨(むご)たらしい最期を遂げたときも、主から愛し抜かれた弟子たちは皆、同じ運命になることを恐れて散々(ちりぢり)に逃げ去ってしまったではないか。」と女次郎長さんは彼らの裏切りを赦している。
32人の傍聴者の一人が描いたスケッチ 傍聴の支援者 原告 その弁護士
聖人たちは皆、キリストと同じように遺棄と孤独を体験する運命にあるのだろうか。
世俗の裁判の勝敗は金(かね)次第の面もある。金に糸目をつけず、優秀な弁護士団を揃えて受けて立つ教会側が勝つことも多い。しかし、証言台に立つ勇気を持った証人が現れなくても、「破門」をちらつかせたパワハラ発言を目撃した人が100人近くも存在する事実を否定できるものではない。神様の目から見て明らかな不義がまかり通った事実だけは、世に広く知られ語り継がれなければならないと思う。
映画「セントオブウーマン」の主人公チャーリーが、自分の良心の声に忠実であろうとしたために、あわや名門校退学処分の判決を受けようとしたとき、スレード中佐が父親代わりに現れて高潔なチャーリーを救ったように、キリストとその天の御父は清水の女次郎長さんの魂を救い上げ、復活の栄光のうちに聖人として迎えてくださるに違いないと私は信じて疑わない。
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清水教会問題に関する私の過去のブログもご参照ください(下のタイトルをクリックすると飛べます):
★ 清水の女次郎長がまた吠えた
★ 清水の女次郎長さんの地味な運動を知ってください - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)
★ 【号外】「清水の女次郎長」さんが久しぶりにつぶやいた
★ 《清水の女次郎長さんがまた動き出したようです》
シノドス的教会を目指している最中にも、このようなことが起きているということでしょうか・・・。「霊における会話」はなされているのでしょうか?
Catholic Bishops' Conference of Japan カトリック中央協議会
「シノドス的教会を目指して 日本のカトリック教会の挑戦 28/06/2024」の、 2.日本のカトリック教会の挑戦、の、2.3 日本のシノドスのつどい、の、2.3.1 「霊における会話」の報告、の、2.グループ毎のテーマ(6 グループ)、の、 • 耳を傾け、同伴する教会を目指して(「まとめ文書」第3部16)、にあることは、難しい問題でありかつなおざりにされてはいけない事であると以前から感じてきましたが、この記事にあることへの「霊における会話」が持ち続けられ、一致へ向かっていくことを願います。
コメントありがとうございました。
いつものわたしなら、この度の浅野さまのご意見のようなトーンのコメントは非公開、乃至は、削除の対象とさせていただくのですが、今回はあえて公開することにしました。
私が「正論を吐く者」であるとするお言葉が皮肉ではなくご本心からのものだとすれば、私は感謝申し上げます。
「正論・真理」には力が内在していて、おのずから心の正しい人を納得させる働きをします。敢えて押し付ける必要はありません。
「人間がいかに無力であるか」は私も身に染みて実感しています。ですから私が「人を救う」などという尊大な考えを抱いたことは一度もありません。
救うのは神お一方であり、救い主イエス・キリストのみであります。
私たちはただ、罪びとであることを顧みず、ひたすら福音を宣べ伝えるのみです。
神父さまが上のコメントに書いてくださったことは,正教会の教えから逆に,上辺だけですが,伝わってきました.また,少なくとも次の本を通して,正教会の伝承のマリヤの逡巡に出会っていました.大切なことだと思われますので,大変長い引用をいたします.おゆるしください.
「メッセージ集 神の狂おしいほどの愛(大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ)松島雄一 [著] ヨベル (2019)」の第二部 第 44 話 生神女(しょうしんじょ)マリヤ ー 正教の理解,に,(マリヤ無原罪の懐胎の)「この教義は 1854 年,時の教皇ピウス九世によって宣言されました.マリヤはその母の胎内に宿ったその瞬間から原罪のあらゆる汚れを免れていたというものです.この考え方は中世ローマ教会に生まれ,少しずつ影響力を持つようになりました.その間,ローマ教会で聖人に列せられるほどの神学者たち,たとえば,ベルナルド,ボナベントゥラ,トマス・アキナスなどの強い異論があったにもかかわらず,ついに 19 世紀半ば,教皇がその聖座から宣言するにいたった新しい教義です.この教えについて正教会はこぞって反対の声をあげました.・・・.
マリヤが私たちすべと同様に,アダムとエバが神に背いて以来深め続けてきた人間の病をわかちあって生まれてきたからこそ,彼女の清らかさ,彼女の神への従順さ,そして彼女に教会の聖なる伝承が託し続けた徳とやさしさは,私たち信仰生活を歩む者の希望です.マリヤが偉大ではあれ『例外者』であるなら,マリヤの持つ聖性,マリヤに体現されている理想的な人間像は,そしてマリヤに与えられた神の祝福はどこまで行っても向こう側にあるもので,私たちが分かち合えるものとはなりません.・・・.
正教会で受胎告知を記憶する『生神女マリヤ福音祭』の祈りの中では天使の告知と,それをとまどい,ためらい受けとりかねているマリヤの対話が,ことさらに長々とくり返されます.
・・・.この生神女福音祭の天使とマリヤの対話はマリヤが自由な者として同意したという現実をこれでもかこれでもかと強調しているのです.これはまちがいなく同意です.もしマリヤが同意しなかったら,世界と人類に対する神の救いはまた別のものであったに違いありません.・・・.」 cf. pp. 227-232.
カトリック教会と正教会における原罪論の違いは決定的であるようにど素人のわたしは感じます.また,無原罪懐胎の教義における考えは,「彼女(マリヤ)と旧約時代の義人たちとの間にある,重要なつながりをすべて弱めてしまう」というカリストス・ウェア主教のことばはそのとおりではないかと,ど素人なりに思います.聖化(sanctificatio) としんか( theosis, 神化,深化)も根本的に異なるのかもしれません.
最後に.昨日,いつもより遅い時間に職場への道を歩いていると,支援学校のバスが歩道に止まっていました.バスの横を通り過ぎる時に窓から中を見ると,わたしがおそらく普段決して見ることがない笑顔のこどもがこちらに会釈をしてきました.こどばでは表現できない何かが伝わってきました.一年と数か月程前にもほぼ同じような経験をして,神父さまのブログにその事を書かせていただました.わたしにとっては,何かが全然違うとしか言いようがありません.
さて、聖母マリアの無原罪の御宿りの教義については、正教会の信仰と相容れないものがあるとのご指摘で、初めて思い知らされました。
聖ベルナルド、聖ぼなヴェントゥーラ、聖トマス-アクイナスなどの中世のカトリックの偉大な聖人神学者が強い異論を唱えたにもかかわらず、と言われれば、浅学菲才の私など???と混乱して怯みそうになりますが、1000年以上にわたって固定し変化してこなかったカトリックの信仰箇条に久々に追加されたからには、それなりの理由があったのではないかと思います。
それは、信仰の源泉を聖書と聖伝に求める教会として、教会の歴史に極めて早い時代から深い民間信仰に根強くあった聖母の無原罪信仰の問題に決着をつける形で、広く全世界の司教たちにアンケートを回して結果を調べたところ、圧倒的に肯定的な回答があったことを一つの根拠にして追加・制定された信仰箇条であると理解しています。決定に至った経緯も例外的であり特徴的なものでした。
アダムとエヴァの不従順によってもたらされた原罪を建て直すためには、第二のアダムである神の子キリストだけがアダムと同じく無原罪であっても、第二のエヴァである聖母マリアが原罪のもとにあっては釣り合わないという考えからも演繹されるマリアの無原罪であり、人としてのキリストの無原罪の根拠でもあるマリアの無原罪は広く深く聖伝に根差しているがゆえに、それを正式に教義に加えたのではないかと私は理解しています。
原罪の前の無原罪状態のエヴァが原罪下のすべての女性から隔絶した存在であるように、マリアも第一のエヴァと同じく隔絶した存在であってもそれはそれとして受け入れられないでしょうか。
罪を知らない無原罪の状態に創造されたエヴァにして不従順の罪を犯し得たのであれば、第二のエヴァの立場にあるマリアが無原罪のまま従順に踏みとどまったことは彼女の価値を下げないと思います。キリストの従順も永遠のロゴス=神の御子の従順であっても、人の子の従順であることには変わりなく、キリストは間違いなく罪を知らない無原罪の存在であったでしょう。
これは理性的推論の帰結ではなく、信仰の問題だと思います。
返信をありがとうございます.数年前のプロテスタント教会との関りがなければ,神学に触れようとは思わなかったと思います.正教会の教えに触れ始めたのは,昨年の 5 月頃だと思います.それ以降,神父さまのブログに正教会の信仰についてのコメントや岩下神父さまの本についてのコメントを書かせていただくようになったと思います.わたしが経験したことの神学的な部分を少しはわかってきたように感じます.カトリック教会と正教会は恩寵の下での自由意志を認めていますから,プロテスタント教会より両者は近いと思います.わたしがこのようになったことの一つは,Liturgia Horarum を通してではないかと思います.今年,ようやくラテン語の規範版を購入しました.今の日本のカトリック教会とのずれを感じます.例えば,「教会の祈り」の昨日の第四月曜日 晩の祈り,神のことば(I テサロニケ 3・12-13)の 13 節を朗読して違和感を感じました.「新共同訳聖書」の 13 節の訳からより違和感を感じました.他方,フランシスコ会による訳 (2011) の 13 節の訳は自然に感じました.私が感じた通りの訳でした.わたしの誤解かもしれませんが.Nova Vulgata はまだ調べていません.フランシスコ会による訳の,「あなた方の心が定まり,」は,この地のことではないかと思います.正教会の信仰にもつながっているように感じます.
マリアさまの無原罪懐胎の難しいことは何も知りませんが,Benedict XVI が,「信仰について」で,一介の若い神学者だったころ,「de Maria numquam satis(マリアについては決して語り尽くせない)・・・をわたしはあまり口にしないことにしていた.・・・それから,・・・『処女マリアはすべての異端の敵』という表現の真意が,わたしにはなかなか理解できなかった.」cf. p. 137,は心に残っています.また,岩下壮一神父さまは,「カトリックの信仰」で,「カトリック教会は今日もなお聖母を祝して歌って言う,『汝ひとりにて凡ての異端を亡し給えり』(Tu sola interemisti omnes haereses) と.」cf. ちくま版 p. 348,と書いておられます.御托身(そのニ)の岩下神父さまの聖母についての文から岩下神父さまの心情のようなものを感じます.神父さまが書かれたように神聖なる信仰に関することのように感じます.そのため,予定説を神聖なる信仰としている人には受け入れがたいことかもしれません.プロテスタント教会との関りを通して学んだように思います.わたしには彼らとの対話の仕方がまだわかりませんが.とくに相手の拒絶の度合いが激しい場合に.
所属教会の神父さまは先ず相手をゆるすことです,と仰られました.ただ,このゆるすということばがよくわからないので,「角川 全訳古語辞典 久保田 淳・室伏信助=編 角川書店(平成十四年)」で「ゆるす(許す・赦す・緩す)を調べると,語誌語感に,「ゆるくするの意が原義.さらに,縛っていたものをゆるくするの意から,放す,規制していたものをゆるくするの意から,許可するの意などが生じた.」,とあります.別の辞書によると,「緩し(形)」,「緩ぶ(他)」などと同語根とあります.口語の「ゆるくする」のような感じがわたしには良いようです.相手がわたしに債(オヒメ)があるようには思えません(神様の範疇ですが).善き事を受け取るきっかけにもなりました.そのため,Mt 6:12 のゆるすとは違うような気がします.上記の古語辞典によると「めんず(免ず)」は罪に関わっている言葉のようです.正教会による訳 (1901) のマトフェイ 6:12 では「免(ユル)ス」です.日本語の訳でよく用いられる「赦(シャ)」は「角川 新字源 改訂新版 角川書店(2017)」には,「罪をすておく,『ゆるす』意を表す」,とあります.今初めて気がつきましたが,「放」,「救」,「赦」にはすべて「攴(ぼくにょう)」があります.上記の辞典によると,「これを部首にして,打つ・たたくなどの動作,また強制する意などを表す字ができている.」,とあります.「救」は上記の辞典によると,「とどめる,休止させる,転じて『すくう』意を表す.」,とあります.「放」,「救」,「赦」には,強制する感じが強いように思います.「愛 (𢜤)」は,「ふりかえりつつ歩く,ひいて,心にかける意を表す.」,とあります.ホイヴェルス神父が仰った,愛することは想うこと,につながっているように感じます.口語の感覚だけからはわからないことがあるように感じます(わたしにの不勉強故からもしれませんが).
有難うございました。
返信をありがとうございます。
ゆるすことについてもう少しだけ書くことをお許しください.上に引用いたしました (10/11 記)松島司祭のメッセージ集にある「第 10 話 ひとりでは救われません ー人々のあやまちをゆるすなら・・・ 大斎準備週間『乾酪の主日』に マタイによる福音書 6 章 14-21 節」の冒頭は,「ある小説家が,宗教改革以来の近代的なキリスト教を『神との直(じか)取引』と呼んだという話を聞きました.・・・.罪の意識に一人でもがき苦しみ続けてきた者が,その魂のいちばん深い場所で,神と一対一で差し向かい,神の無条件の赦しを信じることで『救われる』・・・.まさに自分の『信仰』と自分への神の『ゆるし』の『取引』です.
ほんとうにそうでしょうか.・・・」cf. 58. です.この後に,朗読箇所のイエスが言う「あなたがたのあやまち」や神との交わりのことが説かれています.今回このメッセージを読み直して,一番最後のことばが今のわたしに大切であると感じました.
「ただ次のように言わなければ,このメッセージは片手落ちです.
それでも神は私たち一人ひとりの心のいちばん深い場所へ『直(じか)に』呼びかけ続けています.『ひとりぼっちのあなた,魂の閉じこもりから出ておいで』,『人をゆるす勇気を求めなさい,あげるから』,そして『わたしの愛をうけとりなさい』と.それに応えるのは結局,私たち一人ひとりです.誰も代わってはくれません.
しかしそれに応えて,孤独な霊の閉じこもりから出てきた時,神は示します.『私』を取り囲むたくさんの人々を.『私』はもはや『私』ではなく『私たち』であることを.」cf. p. 62. 以前にも書かせていただきましたが,わたしでありわたしたちであるということは信仰においてよくでてくるようです.例えば,Ave Maria の最後の,"nunc, et in hora mortis nostrae. Amen" ,今,また我等が今はの際に(古語風のおきかえ)からもカトリック教会の信者は一人では永眠しません,ということだと思います.正教会も「永遠の記憶」によって同じだと思います.日本語訳では nostrae (属格 女性 単数)の訳がなくぼやけてしまっていますが.ホイヴェルス神父さまは,「カトリックはやさしい,プロテスタントはきびしい.」と仰いましたが,このようなところにもあらわれているように思います.ごく最近知ったことですが,「日本正教会」では,聖体礼儀で領聖(カトリック教会の聖体拝領にあたること)を受けるためには聖体礼儀の中で痛悔機密を受ける必要があるそうです(普段受けることができる痛悔機密に加えて).聖体礼儀の動画を視聴していて,途中で司祭の姿が見えなくなり,長い間どこにいかれたのだろうかと思っていました.このこともあって聖体礼儀はミサよりも随分長い時間をかけて行われます.
最後に.キコ先生の仰る,教会における共同体も大切だと思います.とくに大きい教会では.
16/10/2024 に上のコメントに I テサロニケ 3・12-13 の訳について書かせていただきました.
「日本正教會翻譯 我主イイススハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正教會本會印行(オフセット再販)」の「聖使徒パワェルガフェサロニカ人ニ達スル前書」の訳を読みました.引用いたします.
「第三章
十一 願ハクハ神我等(カミワレラ)ノ父,及ビ我等ノ主イイススハリストスハ,親(ミズカ)ラ我等ノ途(ミチ)ヲ爾等(ナンジラ)ニ向ハシメン.
十二 願ハクハ又(マタ)主ハ爾等(ナンジラ)ノ相互(アヒタガヒ)ノ及(オヨ)ビ衆人(シュウジン)ニ於ケル愛ヲ增(マ)シ,且(カツ)満タシテ,我等ガ爾等(ナンジラ)ニ於ケル愛ノ如クセシコトヲ,
十三 爾等(ナンジラ)ノ心ヲ聖潔(セイケツ)無玷(ムテン)ニシテ,神我等(カミワレラ)ノ父ノ前ニ,我等ノ主イイススハリストスノ其(ソノ)衆聖者(シュセイシャ)ト偕(トモ)ニ来ラン時ニ,立タシメン爲ナリ,『アミン』.」(イイススハリストスに傍線があります)
玷(テン),は,手持ちの漢和辞典によると,名詞としては,
きず,あやまち,欠点,過失,という意味があります."theosis" につながっているように感じます.13 節の訳から
今そしてこれからという連なりを感じます.最後の「立タシメン」から大阪ハリストス正教会 長司祭のゲオルギイ 松島雄一が度々仰っている,十字を書いて何度でも立ち上がる(起き上がる),ということを思い起こします.自力と他力はわたしには難しいことですが,神様に対して心をかたくなにしてはいけない,ということは,詩編 95 にあるとおりだと思います.「時課の典礼」の Ad Invitatorium で詩編 94 (95) が唱えられる所以でもあるように思います.
「カトリック入門ー日本文化からのアプローチ 稲垣良典(先生)ちくま新書(2016)」の第六章「神の母」マリア,の,4 「無原罪の御宿り」をめぐって,の,トマスはなぜ「無原罪の御宿り」を否定したか,に,
「 原罪が神学的概念として明確に意識されるのはアウグスティヌスとペラギウス派との間の論争がその始まりとされており,そのアウグスティヌスは(前述のように)聖母マリアと原罪との問題に関しては微妙で
慎重な発言をするにとどまっているのである.
ところがこの後,東方教会ではマリア信心が勢いを増し,八世紀末頃からマリアの母アンナが懐胎したことを祝う祝日(十二月九日)が定着し,典礼文や祝日説教ではマリアが初めから
『待ったく清らかな方』であったと称えることが慣習化したとされる.・・・.
トマスが聖母マリアは原罪の汚れを免れてはいなかったと述べている主要テクストは次の通りである.『もし至福なる処女の霊魂が決して原罪の汚れにとりつかれることはなかったのであれば,このことは万物の全的な救い主 (universais omnium Salvator) としてのキリストの尊厳を毀損することになったであろう.・・・.しかし至福なる処女は確かに原罪の汚れを蒙りはしたが,母の胎から生まれる前にそれから潔められた.」 cf. p. 255. ,とあります.カトリック教会の今にいたる聖母への崇敬は,東方教会からの影響が強いことは全く知りませんでした.また,正教会は,原罪を教義化することをためらって今にいたるそうですが,上のトマスのことばと大きく異なり,生神女(しょうしんじょ)マリヤ
の theosis が中心にあるようにど素人は感じます.立ち上がる(起き上がる)と 23/10/2024 に上のコメントで書かせていただきましたが,イエス様が引き起きしてくださるということとつながっているように感じます.「時課の典礼」では朝の冒頭で詩編 50 (51) の 17 節を唱え,金曜日の朝に詩編 50 (51) をキリスト教徒として唱えることを思い起こします.徹底的に打ち砕かれた中,神様に心をかたくなにしないことは難しいことのように感じます.先日の聖体礼儀(20/10/2024 YouTube にあります)で,日本正教会の松島司祭は私たちを引き起こしてくださるのは,主イイススハリストス,このお方しかいないことを信じて,思いを決して主に手を差し伸べなけなければいけません.主イイススは,私たちに「爾(ナンヂ)ニ謂(イ)フ起キヨ」(ルカ 5:14 日本正教会の訳 (1901))と呼びかけ続けておられるのだから,この呼びかけは何よりも主イイススからの救いのお約束なのですから,という意味のことを仰っておられます.
「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま)ちくま学芸文庫(2015)」の第八章 御托身(そのニ),の,マリアの婚姻と終生童貞,に,
「(三)聖母の懐胎が,聖霊の奇特による事は前にものべた.彼女はまた終生童貞であったとは,正教会の初代よりの連綿(れんめん)たる信仰である.」 cf. p. 359. ,とあります.23/10/2024 に上のコメントにおいて I テサロニケ 3・11-13 の正教会の訳 (1901) を引用いたしました.その訳の 13 節に,「無玷(ムテン)ニシテ」と
ありますが,「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア [著] 松島雄一(日本正教会 司祭)[訳] 新教出版社(2021)」の第四章 人としての神,の,なぜ処女
懐胎なのか?,に,
「 ラテン教会の無原罪懐胎の教理を正教は受け入れないが,正教は奉神礼の中で神の母を『汚れなき achrantos』,『至聖なる panagia』,『全く玷(きず)なき panamomos』と呼ぶ.」 cf. pp. 120-121. ,とありますので,無玷は theosis につながっているように感じます.わたしの自由意志で初めて教会に行ったのは,家の近くの教会でした.英会話の学びと聖書の学びの後,わたしは最後まで残って牧師先生(北欧系のルーテル教会の)に社会のことについて話しました.今思えば,不思議なことです.聖書のまなびに対して,何かを感じたからかもしれません.そのとき,先生は,岩の上に家を建てなければいけない,ということを話されました.いまだに心に残っています.今のわたしには,マリアとマルタの話につながります.先生の退職による引っ越しの手伝いに行きましたが,木刀と鉄アレイがありました.体を鍛えておられたのかもしれません.そのとき,先生は 70 歳だったはずです.よく祈られる,祈ってくださる先生でした.
返信をありがとうございます.その教会との出会いがなければ,ドイツで礼拝やミサに行こうとは思わなかったでしょうし,偶然 FEBC の放送にダイヤルが合って番組を聞いてもそれがイエス様のことであるとはわからなかったと思います.英語が出来なかったことが幸いして,その教会の英会話教室に行き,聖書の教えも受けました.聖書には歴史が書いてあるのか,と素直に思いました(信憑性は別にして).
神父さまとの出会いは森司教様の本にかかわることからでしたが,初期の教会のことを中心に教えていただいているように感じます.神父さまのブログの記事もそのことが根底にあると思います.
「正教会の手引き 日本ハリストス正教会教団 全国宣教企画委員会(改訂 2013 年)」の第四章 正教会の世界観,の,5 天国,の,「煉獄」はない,に,
「・・・,正教会では,神の憐れみとハリストス(キリスト)の贖罪を軽視するそのような考えを否定します.」cf. pp. 109-110.,とあります.そのような考えとは「煉獄」のことです.また,同じところで,「永眠」の意味,に,
「・・・.確かに『永眠』と言いますが,これは『復活』を強調した表現です.死者のたましいは,どんな状態かは不明ですが,私たちとの関係をもちつつ復活を待っています.」 cf. p. 110.,とあります.神父さまが
何度か書かれたことに近いように感じます.
地の塩について何度か助言をいただきましたが,「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ小野成信 [訳] 教友社(2021)」の,地の塩(五旬祭火曜日,マトフェイ 4 章 25 節 - 5 章 13 節),に,イイススの時代の塩についての具体的な説明の後に,
「・・・.このたとえには,多段階的な意味があります.・・・.イイススの教えに拠れば,ハリストス教徒たちは『世で』生きています(ヨハ 16・33)が,『世に属していない』(ヨハ 15・19)のです.この世と混交してしまわず,ハリストス教徒たちは,この世の生活を意義深いものとし,彼らのこの世での存在は,人間の善き在り方の重要なファクターとなるのです.
神の国についての福音書の絶対的啓示は,常に相対的で時間的なものであるところの,いかなる社会的・歴史的形態にも収まりきらないものです.この意味において,ハリストス教はこの地の塩となり,人間の道徳観全体の発展に新しい方向性を与え,何世紀にもわたって人類の生活に『塩気を与え』る能力を示したのでした.・・・」 cf. pp. 212-213., とあります.この書を読むといつも同じものを感じ,不思議に思います.東方正教会の霊性に立っているからだと思います.