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最後の復活徹夜祭
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私は前回のブログ〔「菩提樹」西の故郷、東のふるさと(そのー1)〕の最後に「なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。」と書いたのに、復活祭を目前に、その他の事情も手伝ってなかなか筆が進みませんでした。そして、とうとう今になってしまいました。それで、「菩提樹」(その―2)は後回しにして、ひとまず復活祭風景を描いてみましょう。
今年の復活の徹夜祭は、3月30日(土)の深夜に、東京の八王子大学セミナーハウスでおこなわれました。深夜の11時過ぎに始まって31日未明の4時半ごろまで、ほぼ5時間の長丁場でした。普段は夜は寝かされる子供たちも、この日ばかりは、昼寝をたっぷりさせられて、夜通し起きて過ごすことになります。
ああ、これが東京での最後の徹夜祭になるのか、と思うと万感胸に迫るものがありました。真っ暗闇にまず復活のローソクに火をともし、そこからみんなが次々と手元のローソクに火を移していく光の祭儀は、世の救い主、神の子キリストによってもたらされた信仰の火が人々の心に伝えられ広まっていくのを象徴しています。とても神秘的な沈黙劇です。
その中を、キリストを象徴する復活の大ローソクを高く掲げた私は、「キリストの光 ♫」と歌うと、一同は「神に感謝 ♫」と歌って答えます。それを音程を上げて3度繰り返しながら、私は会衆の中をゆっくりと進みます。
その後、救いの歴史をたどる、新・旧約聖書から取られた長い九つの朗読が続きました。先ず創世記第1章「天地創造」に始まり、アブラハムによる息子イザクの生贄、出エジプトの物語、イザヤの予言、エゼキエル書、・・・パウロの書簡、そして福音朗読まで・・・
交代で読まれる朗読のあいだ、後ろに座っている私の姿は、このアングルでは朗読台と祭壇の上のローソクの間にちょっと見えるだけで、ほとんど隠れています。この夜、福音だけは、私が朗読台からメロディーをつけて歌います。
その後、毎年の復活徹夜祭の慣例にもとづいて、今年も満1歳前後の3人の赤ちゃんの洗礼式が行われました。
素っ裸の赤ちゃんを高くかかげ、「私は、父と、子と、聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」、と叫びながら、ザブーンと勢いよく赤ちゃんを3度水に沈めます。今年は3人とも泣かなかった。洗礼盤を取り囲んでそれを眺める子供たちは、大喜びではやし立てます。ちょっと大きな女の子たちは、私も赤ん坊の時あれをやられたのかと想像して、恥ずかし気です。洗礼は罪に汚れた古い人間が水に沈められて死に、復活の命を身にまとって新たに生まれることを象徴しています。ただ額に水を注いで清められるだけではありません。私の後ろには先ほど火を灯したばかりのま新しい復活の大ローソクが。
それにしても、もっといい写真があるかと思ったが、最近はみんなスマホで動画を撮っているので、私がブログで扱える静止画像をくれる人はほとんどいませんでした。
金曜日の午後3時から徹夜祭が終わる日曜日の未明まで断食していた一同は、ラマダン明けの回教徒さながらに、持ち寄りとケータリングのご馳走のアガペー(お食事会)でお腹を満たし談笑し、夜が白むころ、キリストの復活の確信と喜びに満たされて三々五々家路につくのでした。これぞ、キリスト教信仰の原体験というべきでしょう。
さて、来年、私はどんな復活祭を祝うことになるのでしょうか。
「世のいのちのために 正教会のサクラメントと信仰 アレクサンドル・シュメーマン(神父)(日本正教会 司祭)松島雄一 訳 新教出版社(2003)」の、第 4 章 水と聖神(せいしん)によって、には大切なことがあると思いますので、再び引用することをお許しください。ここには、古い時代の洗礼の準備期間のこと、「悪魔払い(エクソシズム)」のこと、受洗後の八日間のこと等大切なことが書いてあります。
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「・・・。しかしクリスチャンとはまさに、神秘的な『あの世』の現実性ではなく、私たちの生きる『この世』と私たちの生きるいのちの真の現実性がキリストにあることを知っている者たちのことです。いや、むしろキリストこそがこの現実性そのものであると確信する者たちです。この世を自己完結した輪と考えるなら、この世自体とそこに存在する一切には何の意味もありません。この世に従って生きる限り、言い換えれば、人間のいのちそのものをそれ自身の目的として生きる限り、何の意味も到達点もこの世にはありません。何もかもすべては最後には死の中に溶解してしまうからです。しかしもし私たちが人生それ自体の自己充足性を自由に決然と無条件にすっかりあきらめて、キリストにすべての意味を置くなら、『新たないのち』、この世の新たな把握が与えられます。世界はそのとき真にキリストの存在の機密、神の国と永遠のいのちの成長の場となります。・・・」 cf. p. 106.
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「 しかし罪は依然として私たちの内にあります。人はいったん受け入れた新たなるいのちから繰り返し離れます。新たなるアダムの旧きアダムとの戦いは長く苦痛に満ちたものです。再生とキリストへの決意の内に体験した『救い』が、私たち自身に道徳的な正しさと誠実さそして温かい友愛をもたらし、そしてこれこそが神のその御子をこの世のいのちのために与えた救いの果実のすべてであると考えるような単純化は、非現実的です。真の悲しみとは『自分は聖人ではない』という事実です。『道徳的な』クリスチャンが実にしばしばこの悲しみをまったく経験することも感じることさえもないのは、彼らの救いの体験、彼らの『救われた』という
感覚が自己満足に過ぎないからです。・・・。
洗礼は罪の赦しでありその除去ではありません。洗礼はキリストの剣を私たちの人生に投げ入れ、人生を真の葛藤に、成長への避けがたい苦痛と受難にします。罪の現実がその真の悲しみと共に認識されるようになり、真の痛悔が可能になります。それは洗礼の後であり、また洗礼を受けたからこそなのです。だから教会の全体は赦しの贈り物であり、来るべき世の喜びであると同時にまた避けることのできない永続的な痛悔なのです。祭りは斎(読み:ものいみ)(断食)なしにはあり得ません。斎は痛悔と立ち帰りです。悲しみと放逐の体験です。教会は神の国の贈り物です。しかしこの贈り物がまさに、私たちが神の国にはいないこと、私たちが神を離れていることを明らかにします。痛悔は私たちを
何度も何度もパスハの祝宴の喜びに連れ戻してくれます。しかし、その喜びこそが私たちにその罪深さを露わに示し、私たちを裁きます。・・・。それぞれの聖体礼儀が主の晩餐の繰り返しではなく同じ永遠の祝宴への私たちの上昇であり受け取りであるのと同じように、痛悔機密も洗礼の繰り返しではなく、神がたった一度限りお与えになった新たなるいのちへの立ち帰りなのです。」 cf. pp. 111-113.
一年程前のある日に、YouTube で大阪ハリストス正教会の聖体礼儀を視聴していた時に、司祭 ゲオルギイ松島は、ぎりぎりのところでこの地に踏みとどまる、という意味のことを仰ったように記憶しています。ときどきこのことばを思い返していました。上のシュメーマン神父のことばから、確かにそのことを感じるように思います。先日、日本 FEBC で放送された「光、イイススというお方 ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会 長司祭)<2019 年 4 月 2 日から 9 月 24 日の毎週火曜日に放送>」の第四回目を何気なく聴いていました(朗読箇所は Mt 20:1-16)。以前は聞いているだけで、聴いていませんでした。「メッセージ集 神の狂おしいほどの愛(司祭)松島雄一 [著] ヨベル(2019)」の第 17 話 主の喜びに入れ 復活大祭に ヨハネによる福音書 1 章 1-17 節」にあることばだとわかりました。放送では朗読箇所が上記に変えられていますが、それは、復活祭で千年以上にわたって必ず読まれる 4 世紀のコンスタンティノープルの大主教イオアンネス・クリュソストモス(金口イオアン)の説教をよりよく味わうためではないか思います。「さあ、だから、この主ご自身の歓喜(よろこび)に入ろう!」が強調されています。口語訳、文語訳、英語訳の全文が大阪ハリストス正教会の site にあり、YouTube で司祭 ゲオルギイ松島 による文語訳の朗読(19/04/2020) を聴くこともできます。わたしが記憶している、信仰によって義とされる、そんなことはどうでもよい、神学者にまかせておけばよい、という意味の司祭 松島雄一のことばは、この回のお祈りのことばだったのかもしれません。FEBC からの disk にはお祈りはほとんど収録されていません。2019 年の春頃体調が悪かったので、FEBC の放送を良く聞いていて、正教会の信仰に出会っていました。